玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(5)

2017年11月11日 | 読書ノート

「ペテン師に囲まれた幻視者」のディックについての論点は多岐にわたっていて、他にも独自な指摘はたくさんあるのだが、レムの言いたいことをひと言でまとめている文章を挙げるとすれば、以下のような部分であろう。

「――つまり、ディックの世界において悪性腫瘍のように攻撃的になってゆくこの現象――は、もはや単に純然たる幻想とは思われないのである。だがそれは、ディックがなんらかの具体的な未来について予言しているということではない。彼の小説で描かれる崩壊してゆく世界は、いわば創世記をひっくり返したようなもので、そこでは調和が混沌へと逆もどりさせられる。これは予見された未来というよりはむしろ、未来の衝撃であり、単純な形ではないにせよ、虚構の現実の中に具体化されているのだ。つまりこれは、現代の人間に特有の恐怖や陶酔が客体に投影されたものなのである。」

つまり、世界の崩壊現象というものがディックにおいては、未来に仮構されているのではなく、間違いなく現代において捉えられているのだということ、あるいはそこに登場する人間もまた、世界の崩壊現象を現代の黙示録として受け取るのだということをレムは言っている。
 前にも言ったが、SFというものが未来を語る振りをしながら、過去を語ることしかできず、現代をテーマとする責任から逃れていることがその致命的な欠陥だとすれば、ディックの作品はそのような欠陥を免れている稀有なものといわざるを得ない。
 最後にハヤカワ文庫版『ユービック』の浅倉久志による解説の末尾に引用されている、P・K・ディック自身の自作解題を紹介しておきたい。長くなるが引用する。この文章を読まなければ我々は『ユービック』の本質を本当には理解できないだろうからだ。

「われわれは『ユービック』の登場人物のように、半生命状態にあります。われわれは死んでも生きてもおらず、解凍される日を待ちながら、冷凍睡眠に入っています。季節にたとえれば、これは人類にとっての冬であり、『ユービック』の登場人物たちにとっての冬なのです。……『ユービック』の登場人物たちの上を覆った氷と雪を融かすもの、彼らの生命の冷却を止め、彼らの感じるエントロピーを押さえるものは、グレン・ランシターが呼びかける声です。ランシターの声は、毎冬、地中の種子や根が聞く目覚めをうながす声にほかなりません。……『ユービック』では、時間が無力化され、もはやわれわれが経験するように線的な前進をしなくなります。登場人物たちの死によってこれが起こったとき、読者としてのわれわれと、ペルソナとしての彼らは、マヤのヴェール、すなわち、線的時間の曖昧なもやを取り去られた、この世界を見ることになります。時間は、あらゆる現象を結び合わせ、すべての生命を維持しますが、その活動によって、その下にある本体論的な現実を隠してもいるのです。」

 ディックが言うように、我々は『ユービック』の登場人物たちとまったく同じ状態におかれている。ディックは彼らをありもしない未来に送り込んでいるのではなく、彼らもまた我々と同じ現代を生きているのである。
 グレン・ランシターというのは、最初に出てくる「ランシター合作社」の代表であり、月面での爆発でただひとり生き残り、退行する時間の中で、半生状態にある仲間たちにメッセージを送り続ける人物である。したがって、ランシターのメッセージは反エントロピーとしての性格を帯びることになる。
 エントロピーが死に向かっての平衡状態を意味するなら、生命こそが反エントロピーそのものであるからだ。そしてリニアーな時間がエントロピーに支配されているのだとすれば、リニアーな時間の停止はエントロピーに支配された世界の下に、「ある本体論的な現実」を顕わにするのだ。
(本体論とは聞き慣れない言葉だが、いわゆる存在論のことだと考えればディックの言うことはよく分かる。ディックは形而上学を徹底して学んだ人でもあった。)
 そして、先の文章に続くディック自身の言葉は『ユービック』の悪夢のような世界を体験してきた読者にとって、ある種の救いとなるほどに感動的な部分を含んでいる。では、最後に……。

「……この本体論、この存在の領域の中で、われわれ自身のように、夢の中で眠りながら、目覚めよと告げる声が聞こえるのを待っています。彼らとそしてわれわれが春の訪れを待っているというのは、たんなる比喩ではありません。春は暖かさの復帰を、エントロピー過程の廃棄を意味します。……春は生命を蘇らせます――そして、人類という種でもそうですが、新しい生命は、場合によっては完全な変容なのです。」

フィリップ・K・ディック『ユービック』(1978、ハヤカワ文庫)浅倉久志訳

(この項おわり)

 

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