玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ワシントン・スクエア』(3)

2017年11月01日 | 読書ノート

 第1節でスローパー博士の家族のことが紹介されるが、その夫人は「教養があって気立てもよく、優雅で上品な女性だった」とされ、第一子の男の子は「並はずれて将来が有望だ」と博士が期待していたにも拘わらず、三歳で病没したと報告される。
 さらに二年後に女の子が生まれるが、産後の肥立ちが悪くスローパー夫人も亡くなってしまう。娘のキャサリンは丈夫に育つが、年頃になった彼女は次のように紹介される。

 キャサリンは発育のよい、健康な子供だったが、母親の美しさはまったく受け継いでいなかった。醜いというわけではない。器量があまりよくなく、おとなしくてさえない顔つきというだけのことだった。

 スローパー博士は「キャサリンに恋をする青年がいるはずはない」とまで言っているし、「うちの娘なら、しとやかで美しく、気品と知性があって当然じゃないか。あの子の母親は、生きていた頃には最高に魅力的な女性だったし、父親の自分だって、これでなかなか立派なものなんだからな。それなのに、二人の間にできた子はあまりに平凡だ」と考えている。
 主人公に対するこのような酷い設定自体、ヘンリー・ジェイムズのサディズム的な心性を窺わせるに十分である。そして娘に対するスローパー博士の見解も、作者のサディズムを反映しているのである。
 4節で早くもハンサムなモリス・タウンゼントがキャサリンの前に登場するが、読者はキャサリンのような凡庸な娘に本気の求婚者が現れるわけがないと思っているから、スローパー博士が見抜くよりも先に、〝この男は財産目当てにキャサリンに求婚するのだ〟と見抜いてしまう。最初からラブロマンスは期待できないのである。
 だからこの後、スローパー博士がモリスを蛇蝎のように嫌い、娘との結婚に頑強に反対し続けても、読者は博士の頑固で時には尊大とさえ思える姿勢に抵抗できない。読者もまた作者のサディズムに荷担することになってしまうのだ。
 だが本当のサディズムはそんなところにあるのではない。本当のサディズムは父であるスローパー博士の娘キャサリンに対するものの言い方にある。たとえば……。

「婚約は喜ばしい影響を一つ、お前に及ぼすことになるだろうな。それは、わたしの死ぬのが待ち遠しくてたまらなくなることだよ」

 娘にこのような言い方をする父親というものを想像できるだろうか。スローパー博士は、キャサリンによれば「弱いところが一つもない」男であり、その判断力は完全無欠である。
 21節はスローパー博士の恐ろしさをよく描き出している。博士は娘の結婚に反対することを「幾何学上の命題」とまで言ってのけるし、決定的なのは次のような言葉となる。

「(キャサリンの父に対する)崇拝の念がどこで終わるか、――そこを見きわめることに興味を感じるのさ」

そして、

「この感情がまじり合う――その交錯の具合がとても変わっているんだ。何か新しい第三の要素が生まれるのではないか、とそれを見たいと思ってね。いったいどうなるかと、わくわくしながら待っているところさ、キャサリンがこんな気持を味わわせてくれるとは思いもしなかった。娘にとても感謝しているよ」

 父親の言うことではない。そしてそれは、ヘンリー・ジェイムズ自身の登場人物に対する興味でもある。心理小説はある冷酷さをもっていなければ書き得ない。スローパー博士は作者ヘンリー・ジェイムズの冷酷さを共有している。
 そして本当のサディズムはそこにこそある。患者に対する外科医のような興味の持ち方(ボードレールがそんなことをどこかで言っている)がそれである。心理分析は鋭利な刃物のようなものであり、それによって対象の表皮を剥ぎ取り、隠されたものを顕わにする。そこにサディズムの悦びが達成されるだろう。
 フランスの心理小説、コデルロス・ド・ラクロの『危険な関係』は、清純な乙女を道徳的に堕落させていく物語であるが、必ずしも娘を罪へとおとしめることにサディズムがあるのではない。むしろ作者が登場人物への同情など一切もたずに、堕落の過程を心理戦として描いていくという方法にこそ本当のサディズムがある。
 ところで『ワシントン・スクエア』は、後期の『使者たち』と較べてはるかに読みやすい小説である。『使者たち』や『鳩の翼』では、登場人物の会話の後にその何倍もの分析的記述が続くのであるが、『ワシントン・スクエア』では会話の比重がずっと高くて、分析的記述に延々と付き合う労苦がない。
 しかし、ヘンリー・ジェイムズの真骨頂は後期の三部作にこそあると思うので、私は未読の『黄金の盃』を読まなければならない。

 

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