玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(1)

2017年11月06日 | 読書ノート

 映画「ブレードランナー2049」が封切りになったので、「ブレードランナー」を5回も観た人間としては、リドリー・スコット制作総指揮、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の映画を一時も早く観たいものだと思っている。
 と同時に「ブレードランナー」の原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を書いた、アメリカのSF作家フィリップ・K・ディックのことも気になってしょうがない。游文舎の小谷文庫に『悪夢としてのP・K・ディック――人間・アンドロイド・機械』があったので、借りてきて読むことにした。
 この本は1986年にサンリオから出ているが、当時サンリオはSFを中心にした「サンリオ文庫」を出していて、フィリップ・K・ディックの小説もたくさん入っていた。その頃30代だった私はサンリオ文庫のディックを全部買って全部読み、現在も所有している。
『悪夢としてのP・K・ディック』は単行本で、巻頭にディックの短編1編と、13編のディック論(日本人10人、外国人3人)を収めている。その中にポーランドのSF作家スタニスワフ・レムの「ペテン師に囲まれた幻視者」という論考があり、私はまずこれに取りついた。レムは『ソラリスの陽のもとに』というSF作品が大好きだったし、実在しない本の書評集『完全な真空』も読んでいたからである。
「ペテン師に囲まれた幻視者」はスタニスワフ・レムが、P・K・ディックの『ユービック』という作品のポーランド語訳の後記として書かれたものだという。解説によればそれまでディックを評価していなかったレムが、『ユービック』を読んで考え方を改め、ほとんどディックに対するオマージュとして書かれたものであるらしい。
 私はSF小説をあまり読まない人間である。かつてスタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」のもとになった(というかノヴェライズというか)、アーサー・C・クラークの同名の小説や、ロバート・A・ハインラインの『夏への扉』などの有名なSF小説を読んだが、あまり好きになれずのめり込んで読むことはなかった。だから、ディックだけは例外的に読んできたSF作家なのである。
 そして、そのきっかけとなったのが、レムが絶賛している『ユービック』という作品であった。私は『ユービック』を一晩で読み、その悪夢のような世界に圧倒され、その夜は夢魔に取り憑かれ、まともに眠ることもできなかったことを鮮烈に覚えている。
 それ以来ディックのファンとなった私はサンリオ文庫と早川文庫のディック作品をすべて読んだ。しかし、読んだ体験が強烈に残っているのはこの『ユービック』と『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の2作であり、この2作がディックの最高傑作だと思っている。
「ブレードランナー」の原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は、その内容をよく覚えていないし、リドリー・スコットの映画が凄すぎて、原作を駆逐してしまっているので、これは決してディックの最高傑作ではないと思う。

レムのディック論のことに戻ろう。『悪夢としてのP・K・ディック』という論集の中で、真に読むに値するのはレムのこの文章だけだと言ってもよい。「ペテン師に囲まれた幻視者」は、SF小説というものの本質的な欺瞞性を指摘し、本当の文学と通俗小説とを画然と分かち、ディックの小説が通俗性を免れている理由を明示し、『ユービック』という作品の核心に触れた文章である。以下、レムの論考を紹介しながら、ディックの作品にも触れていくことにしよう。
 この論考は次のような文章から始まる。

「正気の人間なら誰も、推理小説の中に犯罪の心理学的真実を捜したりはしない。そういうことを求める者は、むしろ『罪と罰』に向かうだろう。つまり、アガサ・クリスティに対して上級審となっているのがドストエフスキーというわけだが……(以下略)」

 レムは推理小説に心理学的真実を求めるようなことは正気の人間のやることではない、と言っている。犯人は誰か? トリックはどうなっているのか? というようなことをその場限りの興味で追求していく推理小説にそのような目的があるはずもないのだからである。

『悪夢としてのP・K・ディック』(1986、サンリオ文庫)「ペテン師に囲まれた幻視者」は沼野充義訳
 

 

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