玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

スタニスワフ・レム「ペテン師に囲まれた幻視者」(4)

2017年11月10日 | 読書ノート

『ユービック』を読む体験とは、なぜ世界が時間退行現象を起こしていくのか、その謎の解読というような所にはない。そうではなく、正しくレムが言っているように、読者の精神世界もまた「悪性の癌に倒れ、その転移によって生命の色々な部位を次々に蝕まれていく」のである。
 SF小説は実は、推理小説と起源を同じくしている。どちらもその源をゴシック小説から派生した恐怖小説にもっていることは、エドガー・アラン・ポーの小説世界に触れてみれば分かる。恐怖小説は超自然現象が起こり、その謎が物語の進展と共に解明されていくという構造をもっている。
 SF小説の場合には、超自然現象の謎が科学的解明に委ねられるのだし、推理小説の場合には、論理的推論による解明に委ねられるのである。恐怖小説を主に書いたポーが、一方では推理小説の祖とも言われ、SF小説の先駆者とも言われるのはそのような構造的類似性によっている。
 P・K・ディックの場合には、特に『ユービック』や『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』のような作品においては、超自然現象の原因を解明することに主眼があるのではない。何ものとも知れぬ要因によって、現実世界が崩壊していく様相、あるいは現実世界が次々と反転していく過程を描くことにこそディックの主眼はある。
 レムはディックが他のSF作家のように、世界崩壊の要因をはっきりと限定もせず、明示もしないことについて肯定的に評価し、それを現代文学一般に敷衍して、ディックの作品を擁護している。

「小説の中で起こるすべての出来事についての完全な知識を全知の神のような立場から読者に与える文学など、現代では時代錯誤にすぎず、芸術の理論も認識の理論もその擁護を引き受けたりはしないだろう。」

 レムはこの後かなり長く『ユービック』のあらすじを紹介していくが、私はあらすじを追おうとは思わない。私はただ、レムのこの文章からディックのいわゆる不可知論が、〝芸術の理論〟や〝認識の理論〟に関わっているのだということを指摘しておけばよい。そしてこの二つの理論こそが、ディックの作品を単なるSFの世界から〝文学〟の世界へと引き上げるものなのだと言っておきたい。
『ユービック』と『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』はどちらも、〝現実とは何か?〟ということを主要なテーマとしている作品である。『ユービック』の場合には、それは肉体的には死んでいるが、精神的には生きている「半生状態」におかれた人間が、現実と思われたものが幻覚に変わっていくときにその現実にどのように対処していくかがテーマとなる。『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』の場合には、幻覚剤によって認識を改変されてしまった人間が、もろくも幻覚に落ち込んでいく現実にいかにして手を掛けていくかをテーマとする。
 どちらも簡単に言えば、〝現実とは何か?〟というテーマを芸術理論的に、あるいは認識論的に追求しているのである。このようなテーマはこれまでアメリカSFによって追求されたことのなかったものであり、P・K・ディックの特異性も偉大さもそこにこそある。
 ディックのいくつかの作品はだから、アメリカSFに対して上級審の文学としての位置を占めることができたのである。レムはせっかくディックがSFの新たな地平を切りひらいたのであるのに、アメリカのSF界はディックを正しく評価できず、その地平を引き継ぐことがなかったことを嘆いている。
 ディックは不遇な作家であった。「ブレードナンナー」以降、ディックの作品を原作とした映画が数多く作られ、それによってディックは死後有名になったが、「ブレードランナー」以外の通俗映画がどれだけディックの本質に迫っていると言いうるだろうか。ディックは死後も不遇な作家であり続けている。

 

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