玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』(4)

2016年05月17日 | ゴシック論

 幽霊屋敷譚にこのような転倒を導入したのは、ヘンリー・ジェイムズが初めてだっただろうし、それがヨーロッパとアメリカという二つの世界に関わる文明論的な背景を持っていることも、ジェイムズが並の恐怖小説作家ではなかったことを十分に証明している。
 いわば文明論的な衝突が、ブランドンとブランドン自身が創り出した分身との間に起きているのであって、単に恐怖を追究している小説ではないのである。しかし、ブランドンが本当に分身と出会う場面は、恐怖小説の手法に則って、押しては引き、引いては押しながら、ひたすら恐怖を増幅させる描写の連続となっている。
 最初は分身を待ち伏せしようと意気込んでいたブランドンも、あまりの恐怖に撤退しそうになる。しかし、決定的な瞬間がやって来る。分身の出現は次のように描かれている。

「幽霊のようでいながら人間のようで、この自分のような実体感と背の高さの者があそこに待っている……人を仰天させる能力で勝負しようというのだ。そうでしかあり得ない――そう思って近づくと、その顔を定かならぬものにしているのは両手を挙げて顔を覆い、挑戦的に顔をこちらに向けるどころではなくて、その手の中に暗く哀願するように面を隠しているのだ。」

 なぜ分身は顔を隠しているのか? それはすぐに分かる。ついに「あらわになった顔は彼の顔としてあまりに醜悪だ」とジェイムズは書く。そして「彼の前にいるものこそは妖怪、彼の心の中にいるおぞましいものこそおぞましいもの」と続ける。
 分身の側からすれば、醜い顔をブランドンに見られたくないという気持が働いていただろうし、ブランドンはその醜い顔を見て、それが自身の分身であるという事実を否定するだろう。かくしてアメリカを出ず、ニューヨークに33年止まっていたとしたらそうなったであろう存在は拒絶されるのである。
 またこの分身は片方の手の指を二本欠いている。このあたりの細部がなんともなまなましい。ミス・スティヴァートンが言う「彼は惨めだったのよ。彼は荒廃させられたのよ」という言葉が、なんと的確なものとして響いてくることだろう。

 もう一つの「ひとひねり」も加えられている。"夢による告知"のテーマがそれである。ブランドンはニューヨークに帰って、旧知の女性ミス・スティヴァートンとの会話を重ねている。この女性が不思議な夢を見る。彼女は夢の中でブランドンの分身と二回も会っているのである。
 そして、ミス・スティヴァートンが出会うブランドンの分身は当然のようにブランドン自身が出会うブランドンの分身とは違っている。なぜなら一方はミス・スティヴァートンによって創り上げられたブランドンの分身であり、もう一方はブランドン自身が創り上げた彼自身の分身であるのだから。
 ところで、分身と出会ったブランドンは「その面前では自分の人格が崩壊してしまうような人格の凶暴さに直面して」失神してしまう。ミス・スティヴァートンは夢による告知によって、ブランドンの危機を悟り、屋敷に駆けつけて、倒れているブランドンを発見する。彼女はもう一度夢で"彼"に会ったのである。
 最後のブランドンとミス・スティヴァートンの間の判じ物のような会話が、この作品にとって最も重要な部分である。分身をめぐる二人の異なった判断、ブランドンの自己嫌悪、そしてブランドンのスティヴァートンに寄せる気持、さらにスティヴァートンのブランドンに寄せる気持が複雑に交錯して、難解きわまりない会話を構成していく。
 しかしこのような会話と心理描写は、ヘンリー・ジェイムズの主要作品に馴染んだ者にとって、それほど特別なものではない。ただそれが超常現象に関わっているというところが違うし、それは『ねじの回転』と共通している部分なのである。
 ブランドンが見た分身は化け物のようであったが、ミス・スティヴァートンが見たブランドンの分身はそうではなかった。ブランドンは自己嫌悪とアメリカの醜悪さにおいて、醜悪な分身を創造するが、彼女の方はそうではない。なぜなら彼女はブランドンを愛しているからである。最後の場面は読む者を深い感動へと誘う。

「「だから彼は違う……そうよ、彼は――あなたじゃない」と彼女はささやき、彼は彼女を胸に引き寄せた。」

 こうして一編はラブロマンスとして完結する。「なつかしい街かど」という作品は、幽霊屋敷譚を基本としながらそこに分身のテーマと、夢による告知という恐怖小説の要素を加え、さらには文明論とラブロマンスで色づけられた傑作である。