玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』(3)

2016年05月16日 | ゴシック論

「過去の自分に対面するためなのであろうか……」と私は書いた。しかし、そうではなく、ブライドンはもし33年前ニューヨークを離れなかったとしたら、そうなったであろう自分自身と対面するために、古い屋敷に足繁く通うのである。
 ところで、この分身の問題を俎上に乗せる前に、この作品の基本的な枠組みである"幽霊屋敷譚"について触れておかなければならない。恐怖小説にはいろいろなジャンルがあるが、幽霊屋敷譚は最も多く書かれたジャンルの一つであろう。
 そして、世界で最も恐い小説のベスト3に、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』と、エドワード・ブルワー=リットンのその名もズバリ「幽霊屋敷」という二つの幽霊屋敷譚が挙げられていることから分かるように、幽霊屋敷譚ほどに恐いものはないのである。
 それはなぜか? おそらくそれは、幽霊屋敷譚がクリス・ボルディックの言う「閉所恐怖的感覚」と「血統に対する相続恐怖」に最も関わってくるからである。つまり、ゴシック的なものの最大の核となる部分を幽霊屋敷譚が体現しているのである。
 屋敷は閉ざされてはいても広くなければならない。そうでなければどこからともなく現れる幽霊の居場所がない。さらに突然の出現を演出する舞台装置として広い屋敷は不可欠である。
 ホレース・ウォルポールが『オトラント城奇譚』で古城を舞台としたように、アン・ラドクリフが『ユドルフォの謎』でユドルフォ城やルブラン城を舞台としたように(ラドクリフの場合にはそれが幽霊ではなかったことが後で明かされるにしても)、広い閉鎖空間が用意されなければならない。
 ヘンリー・ジェイムズは『ねじの回転』でそれを実践したのだし、「なつかしい街かど」でもこの原則を守っている。『アスパンの恋文』でも『聖なる泉』でもじことである。
 また、城や屋敷は先祖の記憶の多くを濃密に蓄えている場所でもあって、血統相続恐怖を演出するのにこれほどふさわしい場所はない。ジェイムズはこうした古典的と言ってもいいような舞台に、どんな「ひとひねり」を、あるいは「ふたひねり」を加えたのであろうか。
「ひねり」の一つはもちろん"分身"のテーマである。しかもポオの「ウィリアム・ウィルソン」の場合のような自分自身の中の罪と良心に起因する分身ではない。「なつかしい街かど」のそれは、ニューヨークを出てヨーロッパで33年過ごした現実の自分と、ニューヨークを離れずに33年を故郷で暮らしたとしたらそうなったであろう仮想の自分とに起因する分身なのである。
 しかもそこには文明論的なテーマが横たわっている。ニューヨークに帰ってスペンサー・ブライドンが抱くのは、以下のような感想である。

「ものの釣合い、価値観がめちゃくちゃになっている。予想していた醜悪なもの、あまりにもすばやく醜悪感に目ざめた遠い少年時代に醜悪と思ったもの――そういう異常なものどもが今帰って見ると、むしろ魅力になっている。それに対して「しゃれた」もの、モダンなもの、巨大なもの、有名なもの、彼が毎年やって来る何千人という純真な観光客なみに、特に見ようと思って来たものこそ、まさに落胆のみなもとであった。」


 そのような醜悪なニューヨークで生活を続けていたら自分がどうなったかについてブライドンは考え続け、そうなったであろう自分に出会うために古い屋敷に通うのである。
 しかも自分の分身に会いたいという欲望は、その屋敷の中に自分の分身が潜んでいるという確信へと変わっていく。つまりブライドン自身が分身を創り出し、分身を血肉化させていく。さらに彼は分身の先回りをする。
 幽霊が人間を待ち伏せするのではなく、逆に人間が幽霊を待ち伏せする。ジェイムズは次のように書いている。

「総じて亡霊におののいた者は多いが、彼以前にこのように主客を転倒させ、みずからが亡霊世界の計り知れぬ恐しいもの(テラー)と化した者はいないだろう。」

「ひとひねり」どころかこれは"転倒した"幽霊屋敷譚なのである。