玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』(1)

2016年05月14日 | ゴシック論

 フアン・ルルフォの『燃える平原』について書き継いでいこうと思っていたのだが、『ぺドロ・パラモ』についてもそうだったが、私にはうまく書けそうもない。ひとまず保留としておきたい。
 ところで、The Mysteries of Udolphoを3か月かかって読み終え、解放感に浸っている。あとはしばらく自由に好きな本を読んでやろうということで、白水社uブックスの『アメリカ幻想小説傑作集』と河出文庫の『アメリカ怪談集』を続けて読んだ。
 白水社のは1985年の本、河出のは1989年の本で、いずれも古書でしか手に入らない(と思う)。当時このようなアンソロジーが日本人の編集によって多く編まれていて、白水社の方はアメリカ編の他にフランス、ドイツ、イギリス、スペイン、日本、中国、朝鮮編がある。
 河出文庫の方もアメリカ編の他に、ドイツ、イギリス、フランス、ロシア、ラテン・アメリカ、日本編がありどちらも充実した内容になっている。「怪談集」となっているが、怪談というよりも恐怖小説や幻想小説のアンソロジーと言うべきで、編集のセンスも良い。
 先に『アメリカ幻想小説傑作集』の方を取り上げる。なぜアメリカ編を先に選択したのかと言えば、クリス・ボルディックが言っていたように、ゴシック小説の伝統が最も強く伝わっていったのがアメリカであるからで、私はこの「ゴシック論」を通して、そのことを深く認識するに至ったのである。
 編者は志村正雄。ワシントン・アーヴィングからドナルド・バーセルミまで10人の作品が収められている。アーヴィングが1783年生まれ、バーセルミが1935年生まれだから、訳150年をカバーしていることになる。
 私はこのようなアンソロジーを読む時には、まずどの作家が読むに値しないかをチェックすることにしている。しかし、10編の作品のどれもがレベルが高く、排除の要件を満たす作家はそれほどいない。つまりは編集がうまくいっている証拠である。
 一つだけ、セオドア・ドライサーの「亡き妻フィービー」については、ちょっと泣かせる作品で、アメリカ市民社会の良心をくすぐる作品であり、私には似合わないので今後読まないことにしよう。
 ナサニエル・ホーソーンの「若いグッドマン」とエドガー・アラン・ポーの「妖精の島」は、どちらもヨーロッパのゴシック小説の正統的な後継作品という感じがする。やはり偉大な作家の短編として敬意を表しておきたい。
 新しいところではポール・ボールズの「私ではない」が、異常な分裂病の女性の行動を描いていて、恐ろしい。この異常さはただごとではないので、後で詳しく書くことにする。
 トルーマン・カポーティは『冷血』を読んでいるし、『冷血』の映画化作品も観ていて、まったく好きな作家ではないのだが、「ミリアム」には唸ってしまった。ミリアムという少女がミリアムという同名の老女の家に執拗に侵入してきて、好き勝手に振る舞うが、老女の方はそれを拒絶できないという話である。少女の不気味な存在感がこの作品を忘れがたいものにしている。
 ポスト・モダン作家と言われるジョン・バースの「夜の海の旅」とドナルド・バーセルミの「父の泣いている風景」についてはどう判断していいのか正直分からない。
 バースの「夜の海の旅」は、ある精子が数億倍と言われる競争を勝ち抜いて、卵子に到達する苛酷な旅を描いているということが途中で分かるので、なぜそんなことを書くのかということは別にして、何とかついて行けるが、バーセルミの方はそうはいかない。
 バーセルミの「父の泣いている風景」は、言ってみれば"脱構築"小説であって、小説であることそれ自体を否定する意図を持って書かれているとしか思えない。で、何が言いたいのかについてはまったく理解できないのである。
 バーセルミについては池澤夏樹編「世界文学全集」の短編コレクションⅠに収められた「ジョーカー最大の勝利」も読んだが、映画の「バットマン」に出てくるバットマンとその宿敵ジョーカーの闘いを描いたその作品を、どう評価していいのかさっぱり分からなかったことも言っておかなければならない。

志村正雄編『アメリカ幻想小説傑作集』(1985,白水社uブックス)

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