玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』(7)

2015年05月11日 | ゴシック論
 第三編は“崇高”とは区別されたものとしての“美”への考察に向けられている。まず「美とは何でないか」についての分析が行われ、次に「美とは何であるか」についての分析が加えられる。
「美とは何でないか」についての考察は『崇高と美の観念の起原』の中でも出色の部分であり、古典的な美学を根底から覆す革新性に満ちている。
 これまで“美”の原因とされてきたさまざまな概念をバークは次々と退けていく。まずは“均斉”propor-
tion。植物にあっても、動物にあっても、人間にあっても“均斉”は“美”の原因とはなっていないとバークは言う。
 バークは薔薇の木と花のアンバランスや動物の畸型を例に挙げて、それでも美しいものは美しいと言っている。“畸型”は“美”の反対概念ではなくて、“完全な共通形状”に対する反対概念でしかない。また完全な均斉を保っている人間でも、美しい人もいれば醜い人もいるというように、バークの議論には説得力がある。
“適合性”fitness もまた“美”の原因とはなりえないものとして退けられる。“適合性”とは「それ本来の目的実現のためによく適合している」ということであり、いわゆる「合目的的な機能美」のことを指す。バークは適合性を持っていても醜いものの例として、ペリカンの嘴の下の大きな袋、豚の鼻づら、像の鼻などを挙げている。
 バークは「胃、肺、肝臓その他各種の臓器はその目的を果たすためには無類に見事に出来上がっているが、それらは美の観念からは程遠い」とも言っている。バークの既成の美学への反論はかなり経験主義的と言えるが、それには理由がある。
 バークが美学の基礎を感覚に置いていることは前に見たが、ひとが美しいと思うのは一瞬のうちにであって知性や思考を働かせた結果ではないということがバークの美学の前提にある。次のような文章はどこまでも正しい。
「我々が或る対象を美しいと感ずるのは、長い注意力と究明の結果としてでは決してない。美は我々の推論の助勢を些かも要請するものではない。そこでは意志すら何の役割も演じない。美という現象は、ちょうど氷や火が身体に触れる時に暑いとか冷たいとかいう観念が生ずるのと同様に、我々の心に或る程度の愛を効果的に生み出すものである」