玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(3)

2015年03月14日 | ゴシック論
 まだある。語り主ダグラスの「どんな話よりすごいんだよ。僕の知る限り、足元に及ぶものはない」という言葉がそれである。考えてみれば『ねじの回転』の本当の作者は、ダグラスでもなければ女家庭教師でもない。ヘンリー・ジェイムズ自身である。だからこの言葉は『ねじの回転』に対する自画自讃賛の一言でもある。
 ジェイムズは『ねじの回転』に相当な自信を持っていたのだと思うし、その自信は正当なものであった。前にも書いたが、この作品が世界中の恐怖小説の中で最も怖い小説の一つであることは間違いない。
 さらにダグラスの先の言葉に“わたし”が「こわさが、かい?」と尋ねると、ダグラスは「恐ろしさ――恐ろしさだよ!」と答えるが、その前に次の一節が置かれている。
「彼は、“そんな単純なことじゃない”とでも言いたげな表情で、なんと形容すべきかと思いあぐねているようすだった」。
 ヘンリー・ジェイムズ自身が“そんな単純なことじゃない”と考えていたのも確実である。
「こわさ」は原文ではterrorであり「恐ろしさ」はdreadfulnessである。terrorは肉体的あるいは精神的な恐怖を意味しているが、dreadfullには“ものすごい”という意味もあり、必ずしも恐怖にのみ関わる言葉ではない。ダグラスは単なる“恐怖”ではないと言っている。
彼はこう解説する。
「徹頭徹尾、不気味な醜さと恐怖と苦しみに満ちているんだ」(原文では"For general uncanny ugliness and horror and pain.")
 このダグラスの言葉をヘンリー・ジェイムズ自身の言葉として、作品を読む指標としなければならない。
 しかし、まだ結論として言うべき事ではないが、ジッドの言う「すべて心理的に説明できる」という判断が、まったく正しいと私は考えない。ヘンリー・ジェイムズは『ねじの回転』を、正統的なゴシック小説の場合のように超常現象があったとも読めるし、そうではなく“恋の魔法”にかかった精神が妄想する心霊現象に過ぎないものとしても読める作品として構想したに違いない。
 それが本当の「一ひねり」であろう。子供二人で「二ひねり」などというのは地口に過ぎない。しかし、マイルズとフローラという二人の子供が極めて重要な役割を与えられているのは間違いない。