玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(5)

2015年03月17日 | ゴシック論
 本編の最初に大きな謎が仕掛けられている。主人公の教え子マイルズは、寄宿していた学校から「もう預かることはできない」との手紙付きでお屋敷に戻ってくるのである。マイルズは学校で何をしたのか? その謎が『ねじの回転』全編を支配していて、息もつかせぬスリルを生み出している。
 女家庭教師はマイルズが学校で何をしたのか、どうしても知らなければならない。それがマイルズと幽霊との親密な関係と深く関わっているかも知れないからである。そして彼女は幽霊との関係を白状させ、子供たちを忌まわしい幽霊から守らなければならない。それこそが家庭教師の使命ではないか。そして、そのことが“あの方”の信頼を得ることにつながるのではないか。
 ヘンリー・ジェイムズはそこで、心理小説の技法の圧倒的な冴えをいかんなく発揮している。直接子供たちに尋ねることはできないから、探りを入れる。それとなくほのめかして誘導する。そして子供たちの表情から何かを読み取ろうとする。さらに相手が押してきたら引き、逃げようとすれば攻め込んでいく。そうした駆け引きが大人同士ではなく、大人と子供たちの間で繰り返し展開されていく。
 ジェイムズの描写は酷薄さに満ちている。子供たちがもし何も知らない全くの無邪気であったなら、主人公の問いつめはあまりにも残酷である。逆に子供たちが何もかも知っているのだとすれば、無邪気の仮面ほど恐ろしいものはない。最初に置かれた謎の中に「本当はマイルズは無邪気なだけではないのではないか」という憶測を読者に抱かせるという、用意周到な仕掛けがほどこされていたのである。
 実に上手い。 恐怖小説をこれほどの心理的深みにおいて構築することができたのは、ひとりヘンリー・ジェイムズのみではないかと思う。『鳩の翼』で見せた技法が『ねじの回転』では、恐怖を盛り上げることに集中して向けられていく。
 ジェスルとクウィントの幽霊だけが怖いのではない。むしろ二人の幽霊に支配されているかのように見える二人の子供の姿こそが怖い。そして、それを信じ込んでいる主人公の心の奥底もまた……。


ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(4)

2015年03月16日 | ゴシック論
 ゴシック的なシチュエーションが用意されている。舞台は古めかしいブライのお屋敷。このお屋敷にはまるで古城のように塔が二つ建てられているし、しかも銃眼付きの塔である。「中世回帰趣味の時代に建てられたもの」という説明さえなされている。ゴシック小説の常套的なシチュエーションである。とにかく古くなければならない。
 最初の出現はこの塔の上で起きる。そこに「あの方が立っているではありませんか!」と女家庭教師はまず錯覚を起こす。彼女の頭の中は“あの方”、つまりは依頼主であるロンドンの紳士のことで一杯なのだ。この錯覚の場面でもこの出現が恋の魔術による妄想の結果なのではないかと思わせるに十分なものがある。
 しかし、出現したのは“あの方”ではなく、“あの方”がいた時代の召使いクウィントであり、そのクウィントはすでに死んだと女家庭教師は知らされる。出現したのは“あの方”の服を着た(これもまた恋する女家庭教師の妄想なのか?)クウィントの幽霊だったのである。
 出現は続けざまに起きる。クウィントの幽霊は今度は窓の向こう側からマイルズを探してのぞき込んでくる。さらにもうひとつの出現。屋敷近くの湖のほとりで遊んでいるフローラをじっと見つめる女の姿。その女は前任の女家庭教師ジェスル先生であり、その女もまたすでに死んでいることを知らされる。
 主人公はここまでで、すでに多くのことを察知している。まるで幽霊から言葉を介することなく伝えられたかのように。クウィントの幽霊はマイルズを、ジェスル先生の幽霊はフローラを、それぞれ忌まわしい道への同伴者として誘惑しようとしている。そして、クウィントとジェスル先生は“恥知らずな”関係にあったということも。
 そして、もっと重要なことはマイルズもフローラもそのことを知っていて二人の幽霊と結託し、私には決して言わないのだということを、女家庭教師は察知していくのである。そこから主人公と二人の子供たちとの心理的な戦闘が開始されていく。


ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(3)

2015年03月14日 | ゴシック論
 まだある。語り主ダグラスの「どんな話よりすごいんだよ。僕の知る限り、足元に及ぶものはない」という言葉がそれである。考えてみれば『ねじの回転』の本当の作者は、ダグラスでもなければ女家庭教師でもない。ヘンリー・ジェイムズ自身である。だからこの言葉は『ねじの回転』に対する自画自讃賛の一言でもある。
 ジェイムズは『ねじの回転』に相当な自信を持っていたのだと思うし、その自信は正当なものであった。前にも書いたが、この作品が世界中の恐怖小説の中で最も怖い小説の一つであることは間違いない。
 さらにダグラスの先の言葉に“わたし”が「こわさが、かい?」と尋ねると、ダグラスは「恐ろしさ――恐ろしさだよ!」と答えるが、その前に次の一節が置かれている。
「彼は、“そんな単純なことじゃない”とでも言いたげな表情で、なんと形容すべきかと思いあぐねているようすだった」。
 ヘンリー・ジェイムズ自身が“そんな単純なことじゃない”と考えていたのも確実である。
「こわさ」は原文ではterrorであり「恐ろしさ」はdreadfulnessである。terrorは肉体的あるいは精神的な恐怖を意味しているが、dreadfullには“ものすごい”という意味もあり、必ずしも恐怖にのみ関わる言葉ではない。ダグラスは単なる“恐怖”ではないと言っている。
彼はこう解説する。
「徹頭徹尾、不気味な醜さと恐怖と苦しみに満ちているんだ」(原文では"For general uncanny ugliness and horror and pain.")
 このダグラスの言葉をヘンリー・ジェイムズ自身の言葉として、作品を読む指標としなければならない。
 しかし、まだ結論として言うべき事ではないが、ジッドの言う「すべて心理的に説明できる」という判断が、まったく正しいと私は考えない。ヘンリー・ジェイムズは『ねじの回転』を、正統的なゴシック小説の場合のように超常現象があったとも読めるし、そうではなく“恋の魔法”にかかった精神が妄想する心霊現象に過ぎないものとしても読める作品として構想したに違いない。
 それが本当の「一ひねり」であろう。子供二人で「二ひねり」などというのは地口に過ぎない。しかし、マイルズとフローラという二人の子供が極めて重要な役割を与えられているのは間違いない。


ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(2)

2015年03月13日 | ゴシック論
 序章には多くのことが書かれている、というか“ほのめかされて”いる。本編を読む上で極めて重要で必要不可欠な情報がさりげなく書かれているので、注意深く読まなければならない。本編を読み終わったあとで、もう一度序章に戻る必要さえある。
 最も重要なのは、本編の手記を書いた主人公の女家庭教師(この人物には名前が与えられていない)が、依頼主であるロンドンの独身紳士(この人物にも名前が与えられていない)に“恋をしている”ことである。そのことは序章に出てくる“わたし”(作者自身に該当する人物)の言葉「なるほど、彼女は恋をしていたんだな」にほのめかされている。
 本編に入って彼女が赴任地である屋敷に到着し、子供たち(ロンドンの紳士の甥・マイルズと姪・フローラの姉弟)の世話係グロースさんに会う場面で、彼女は「わたしってすぐ夢中になる性なの。ロンドンでも夢中になりました」と口走ってしまう。これはロンドンに住む依頼主に「夢中になった」という恋の告白なのであり、そのことが全編に深く関わってくる。
 また当時の彼女の精神状態について「明らかに一種の魔法にかかっていたので……」というようなほのめかしもあり、彼女が恋の魔法の影響で心理的に心霊現象をみてしまうのだという解釈に根拠を与えている。
 もうひとつ。序章には「子供の出てくることが物語にねじの一ひねりを加えるとすると、子供が二人だったらどうかね?」「子供二人なら二ひねりになる!」というやりとりがあり、ここで出てくるanother turn of the screwという言葉こそがタイトルの由来になっているのである。
 だから『ねじの回転』などという邦題はもともとおかしいのだが、どういう訳かこれが定着してしまっている。今日多くの文庫本にこの作品が入っているが、すべて『ねじの回転』で統一されている。2012年の光文社古典新訳文庫がタイトルを変えてくれるのではと期待したが、これもまた『ねじの回転』だった。

ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(1)

2015年03月13日 | ゴシック論
 ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』をそれだけ読む体験と、彼の主要な長編小説をあわせて読む体験とでは、結果は違ったものになるだろう。『ねじの回転』にも確かに心理小説的な要素は色濃くあるが、『ねじの回転』だけを読んですますのでは、ジェイムズの本当の凄さが分からないのではないか。
 ヘンリー・ジェイムズの心理描写は、はっきりものを言わない“ほのめかし”と、互いの腹のさぐり合いによって構成されているということは『鳩の翼』の項でも書いた。『ねじの回転』もまたそのような叙述に満ちているが、そうした技法が恐怖を喚起するために稼働されているという点で違っている。ジェイムズの『ねじの回転』を真に味わうためには、やはり彼の長編を読み、その方法について知っておく必要があるだろう。
 ところで、ジェイムズ・ホッグの項でアンドレ・ジッドが『ねじの回転』について「超自然的なものに頼らずとも、すべて心理的に説明できる」と言っていることを紹介したが、ジッドはそれを『ねじの回転』を3回読んで初めて理解したことを告白してもいる。確かに最初読んだときよりも、2回目に読んだときの方が心理的な解釈に傾いてくる。しかも『鳩の翼』を読んだあとではなおさらだろう。
 しかし、『ねじの回転』は形式的にはほとんどゴシック小説の伝統をはずれていないと言ってもいいだろう。何よりも導入部である「序章」がそうだ。そこで『ねじの回転』の本編が、“わたし”の友人ダグラスがある家庭教師の女性に託された手記によるものだということが明かされている。
 多くのゴシック小説にみられる特徴は、その物語が古い時代のものであり、紆余曲折を経て奇跡的にその物語の草稿が今日にまで伝えられているといったような導入部を持っていることである。
 ゴシック小説はそうすることで物語の信憑性を仮構するのだが、一方で物語を今の時代から遠いところに置く。フィクションの有効性を高めるゴシック小説ならではの工夫となっている。
ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』(2005・創元推理文庫)南條竹則・坂本あおい訳


山尾悠子『夢の遠近法』(5)

2015年03月11日 | ゴシック論
 タイトルの「遠近法」は「《腸詰宇宙》において、人々の視覚は遠近法の魔術によって支配されている」というところから来ている。さらにその遠近法の魔術は、作者が「ジウリオ・ロマーノの手によるマントゥアのテー宮殿の天井画」の写真を見たことによって与えられたテーマであり、山尾はそれを渋澤龍彦の本で知ったという。

ロマーノ〈マントゥアの天井画〉

 円筒形宇宙はその上下方向に向かっては「遠近法の魔術」に支配されているが、水平方向には正常な空間認識が働くようになっている。そして、そこに展開されるのは、無限の層に積み重なった壮麗な石造りの回廊である。
 山尾はそこでもモンス・デジデリオの絵画からインスピレーションを受けていると思われる。回廊を支える人像柱の描写があるが、デジデリオの作品にはどれも夥しい数の人像柱が描かれているのだ。それらが腰のあたりを中心にして上下対称に造られ、そのために鏡像のように見えるというのは山尾の独創である。

デジデリオ〈油釜に投じられた福音書記者聖ヨハネ〉

 山尾のデジデリオへのこだわりは、つまりはゴシック的なものへのこだわりに他ならない。他にもある。自らの着想によるこの「腸詰宇宙」が、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「バベルの図書館」における“図書館宇宙”と似ていることに驚いたという自作解説には、ゴシック的なものへのこだわりの普遍性についての認識を読み取ることが出来る。

エリック・デマジエール〈バベルの図書館』〉
 さて、「遠近法」には「補遺」があって、そこに次のような一節が書かれている。
「誰かが私に言ったのだ
 世界は言葉でできていると
 太陽と月と欄干と回廊
 昨夜奈落に身を投げた男は
 言葉の世界に墜ちて死んだと」
 山尾によれば男とは“神”のことであるという。また「世界は言葉でできている」よりも「誰かが私に言ったのだ」の方が比重は大きいのだと山尾は言っている。誰が私に言ったのか? 
神でないとすれば誰が? 「世界は言葉でできている」というのはこの小説の内部に関わることなのか、それとも現実の世界に関わることなのか?
 まさかボルヘスが言ったのではあるまい。ではなにがそれを告知したのか? おそらく言葉自身がそこで語ったのに違いない。現実の世界もまた「言葉でできている」のだから。
(この項おわり)


 

山尾悠子『夢の遠近法』(4)

2015年03月10日 | ゴシック論
 作品集『夢の遠近法』の中でもう一編取り上げるとしたら、言うまでもなく「遠近法」という作品以外にない。「傳説」が文体においてゴシック的であるとしたら、「遠近法」はその想像力においてゴシック的である。
「遠近法」という作品は、ある男の書いた未完の小説草稿という形で提出されている。そのこと自体もゴシック的な趣向を感じさせる。男が描いているのは《腸詰宇宙》とその住人の姿である。ここで描かれている宇宙は円筒形をなしており、円筒の直径に限定はあるが、その長さには限定がない。
 円筒は無限の上方まで延び、一方で無限の下方まで錘を下ろす。一日に一回太陽が上方から降りてきて下方に向かっていく。太陽に続いて月もまた上方から降りてきて下方に向かう。しかし翌朝には、太陽は下から戻ってくるのではなく、再び上方から降りてくるのである。
 別に不思議なことではない。現実の地球上でも太陽は東から昇って西に沈むが、翌日西から引き返してくるようなことはない。無限の上方と無限の下方はどこかでつながっているのである。地球の表面が連続しているように、《腸詰宇宙》の内壁もまた連続しているのである。
 円筒形は球を幾何学的に展開したものだと思えばよい。この作品はそんな世界を想定した場所での思考実験のようなものであり、山尾の幾何学的な想像力を全面展開した作品ともなっている。
 宇宙は円筒形の内部に閉じこめられている。外側というものはない。山尾は地球を中心に見た場合の宇宙空間を裏返して見せているのである。そこにあるのは閉鎖空間としての宇宙であって、そこに住む住人はそこから出ることも出来なければ、その宇宙の秘密を知ることも出来ない。この作品は宇宙を閉鎖空間として描くことでゴシック的である。
 何かの寓話なのではない。山尾悠子の想像力はそのようには働かない。より自由にそして幾何学的にこそ働くのだろう。ポオもまた幾何学的な想像力を「メエルシュトレエムに呑まれて」や「落とし穴と振り子」のような作品で大いに発揮したが、山尾悠子の想像力のスケールに及ばない。それは山尾がポオのあとに成立し発展してきたSF小説の世界を知っているからなのだ。
 とにかく山尾悠子は、日本の現代作家の中でその想像力に於いて最も傑出した作家なのだと思う。


山尾悠子『夢の遠近法』(3)

2015年03月10日 | ゴシック論
 デジデリオの作品にはまったく動きというものがない。壮麗な建築群は、静かにそこに立って崩壊を待っているか、あるいは崩壊が終わったあとの静寂の中に置かれている。「偶像を破壊するユダ王国のアサ王(聖堂の倒壊)」という柱が崩壊するその瞬間を描いた作品もあるが、それすらストップモーションのように動きというものを剥奪されて描かれている。
 山尾悠子の「傳説」の書き出しは、デジデリオの作品のように動きを欠いているが、山尾はそれに動きを与えていく。小説は絵画と違っていつまでも動かないままでいることはできないから。
「神々の没落をとうに見送り果てた筈のこの世界に、或る日変化が起きたと思え
動くものが現れたのだ。地平を超え、罌粟粒ほどに小さく、しかし確実に動いてくるものが」
 山尾の描く動きは微細なものに過ぎない。終末の世界を思わせる廃墟の中を一組の男女が静かに進んでいく。いずことも知れぬ方向に向かって。「世界の涯ての涯ても、いつかは尽きると思え」――つまり世界の涯てさえ尽きるところへ向かって……。
 山尾悠子の作品はゴシック的である。デジデリオの作品がそうであるようにゴシック的である。漱石の「幻影の楯」もゴシック的だが、そこにはロマンスがあった。“ゴシックロマンス”というときのロマンスが。一方山尾の作品はロマンスを欠落させたゴシックに他ならない。
 山尾悠子の「傳説」における文体は死後硬直のように“古風”であるが、それがロマンスを欠いている限り十分に“古風”ではない。やはり山尾は現代の作家なのだ。
 山尾は「傳説」のことを自分で「神懸かり的な小説」と言っているが、確かに命令文の効果もあって、信じられないほどの緊張感を漂わせている。しかし作品は極めて短い。これほどのテンションを長い時間維持できるはずもない。こうして山尾のロマンスを欠いたゴシックは、小説であるよりも詩の世界に近づいていく。カタレプシーのような散文詩である。
(1) で『リテラリーゴシック・ジャパン』に触れたときに、「真にリテラリーゴシック(文学的ゴシック)と呼べるのは、高橋睦郎の「第九の欠落を含む十の詩編」と吉岡実の同じく詩編「僧侶」そして我らが山尾悠子の「傳説」の三編だけではないか」と書いたが、その意味が分かってもらえるだろう。現代にあってゴシックは詩としての方が成立しやすいということは言える。
 以上まだ山尾悠子の「傳説」にしか触れていない。先を急がなくてはならない。

「偶像を破壊するユダ王国のアサ王(聖堂の倒壊)」


山尾悠子『夢の遠近法』(2)

2015年03月09日 | ゴシック論
 山尾の「思え」という命令文は漱石の場合のように、物語の時代の限定を求めているだけではない。それは物語の内部にまで入り込んでいて、物語の内容そのものを読者に想定することを求めているのである。作者の意図そのままに……。
「思う」のが嫌であれば、作者の意図のままに「思う」のが嫌ならば、我々読者は山尾の「傳説」という作品から即座に撤退する他はないのである。たとえば次のような情景描写に続く命令文をみよ。
「三百六十度の、不安な灰色の大俯瞰図――その何処にも動くものがない。天球は一枚のぶ厚い痰に似た膜、永遠の黄昏どきである物憂い日蝕のようだ。そして偏執的な細密画を見るような地平の涯てまでを刻みつくした石の大厦高楼群。この世界を領するものは、見捨てられたそれら建築群の豪奢と壮麗、ものわびしい廃墟美。大殺戮の果てたあとの、不吉な静寂。そして沈滞した憂悶の気分、それだけであると思え」
 あらゆる物語には「これこれこうだと思え」という作者による命令が隠されている。それがフィクションであるから。しかし、山尾悠子は「これこれこうだ」と書かずに、「そう思え」と書く。山尾は読者への本来は隠されているべき命令ないし要請を露出させてしまっているのである。
 最初からフィクションがフィクションであることが前提とされながら、作者は読者に対し、それが真実の物語であることをとりあえず信じること、あるいは信じるふりをすることを要請しているのである。
 しかしそれだけではない。山尾悠子はこの廃墟の描写で、十七世紀のナポリで活躍した画家モンス・デジデリオの絵を参照しているのは明らかである。参照どころか、デジデリオの絵を言葉で語り尽くそうとしているのに違いない。山尾は読者をデジデリオの作品の内部に導き入れようとしているのである。
 それがデジデリオのどの作品なのか。山尾の描写に一番近いのは「十字架降下のあるイェルサレムの空想的風景画」であるが、廃墟ばかりを描いたこの画家の作品ならどれでもいい。『夢の遠近法』のカバーに使われている「バベルの塔」という作品でもいいだろう。
『モンス・デジデリオ画集』復刻版(エディシオン・トレヴィル・2009)谷川渥監修

「十字架降下のあるイェルサレムの空想的風景画」

「北方文学」第71号発行

2015年03月09日 | 玄文社
 
 玄文社では3月8日に同人雑誌「北方文学」第71号を発行しました。A5判で280頁あります。
 表紙絵は昨年9月に国立新潟病院内に美術館が出来た、佐藤伸夫さんの「深海・呼吸2014」です。昨年の柏崎市美術展覧会で奨励賞を受賞した作品で、ずっと追い続けてきた「深海」のテーマを見事に展開しています。
 同人の詩人・田代芙美子さんが昨年亡くなったので、追悼特集を組んでいます。日本現代詩人会会長の財部鳥子さんが追悼文を寄せてくださいました。
 また「北方文学」にゆかりのある英文学者で、ラテンアメリカ文学の翻訳者としても有名な土岐恒二さんも昨年亡くなったので、追悼特集としました。
 また昨年同人の大井邦雄さんが日本翻訳文化賞翻訳特別賞を受賞したので、その小特集もあります。
 新しい書き手が参加しています。十日町市の五十川峰夫さんです。まだ40代で、同人の平均年齢を押し下げてくれそうです。シェイクスピアの『ハムレット』の構造分析です。
 村上市の石黒志保さんも今号から同人に加わりました。今号に作品はありませんが、まだ30代なので同人の平均年齢がぐっと下がりました。
 大橋土百さんの「ブーゲンヴィルの黒い花」は、山本五十六戦死に関わる新資料発見に基づいています。戦後70年の節目の年にふさわしい作品です。板坂剛さんの「秋の彼方に」も戦争責任を追及した問題作です。板坂さんなりの「英霊の声」といったところ。
 私の「純粋言語とは何か?――ベンヤミン「翻訳者の使命」を読む――」は胃潰瘍の産物です。読んで胃潰瘍にならないように気をつけてください。

 目次を掲げさせて頂きます。

月に血の色が差し、そして◆館 路子
追悼・田代芙美子さん
財部鳥子◆田代芙美子さんを偲んで
 鈴木良一◆祝福と追悼と――田代芙美子さんの詩集に触れながら――
 田代芙美子◆作品4編
追悼・土岐恒二さん
土岐知子◆絶望と永遠と
 大井邦雄◆土岐君からの最後の年賀状
 霜田文子◆土岐恒二氏の仕事から――『ボマルツォ公の回想』を読む――
純粋言語とはなにか?――ベンヤミン「翻訳者の使命」を読む――◆柴野毅実
「仮面」と「告白」◆鎌田陵人
一遍と一茶へのメモ◆榎本宗俊
『ハムレット』舞台の彼方と幕の向こう側
――シンメトリー構成からTo be or not to be, that is the questionを解く(1)――◆五十川峰夫
特集・大井邦雄日本翻訳文化賞翻訳特別賞受賞
 大井邦雄◆翻訳特別賞を受賞して
 若林光雄◆精緻な注釈加え原著を充実
 冬木ひろみ◆書評『シェイクスピアはどのようにしてシェイクスピアになったか』
ブーゲンヴイルの黒い花◆大橋土百
父の出征◆福原国郎
新潟県戦後50年詩史――隣人としての詩人たち〈5〉――◆鈴木良一
高村光太郎・智恵子への旅――智恵子の実像を求めて〈8〉――◆松井郁子
秋の彼方に◆板坂 剛
長い留守◆新村苑子

一部送料込みで1,500円です。ご注文は玄文社までメールでお申し付けください。
genbun@pop07.odn.ne.jp