玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

志村正雄編『現代アメリカ幻想小説』(4)

2015年06月26日 | ゴシック論
 16編の中にはコンラッド・エイケンの「ひそかな雪、ひめやかな雪」のように抒情的で静かな幻想小説もあるが、たいがいが饒舌で、あくの強い作品ばかりである。
 とくにジョン・バースの「嘆願書」はそうした傾向を強く持っている。文章は理路整然としていて、まったく何の破綻もないが、書いてあることがあまりにグロテスクで、読者に対する挑発的な姿勢を感じないではいられない。
「嘆願書」というのは、シャム双生児の弟がアメリカを訪れたインドの(仏陀の子孫とあるから多分)プラジャディポック陛下に、兄の非道を訴え「世界最高水準の外科医にご下命をたまわり、私を兄から成功裡に切断し、すくなくとも一方の命をとりとめて他方から解放」することを求めるものなのである。
 これが何かの風刺なのかどうか定かには分からない。しかし「嘆願書」の中に「東洋の宗教と哲学は、個と個の差異を極少化し、同一性と異質性の違いさえ否定する」とあるからには、その逆として西欧人の個と個の差異を極大化し、対立の中で苦しむ生き方を、東洋の施術によって救って欲しいというメッセージなのだろうか。あるいはそうした読みさえ嘲笑するような冗談なのかも知れないが……。
 チャンとエンという東洋のシャム双生児が理想的兄弟愛によって、体が接続していても幸せだったのに対し、嘆願子と兄の二人は「私の腹と兄の腰」とで接続していて、お互いの行動の大きな障害にはなるし、それよりも性格が正反対で、いつも対立を繰り返し、お互いの存在を否定し合っている。
 これなどアメリカ人の一般大衆と知識人との相容れぬ対立的性格を寓意しているようにも思えるが、それをわざわざシャム双生児を登場させて表現するところに、バースのグロテスクな想像力を見ないわけにはいかない。
もう一人の現代作家ドナルド・バーセルミーの「大統領」もグロテスクな想像力を発揮している。時の大統領は「肩までの高さわずかに百二十二センチ」という風変わりな男であり、大統領が不可解で風変わりであるために、失神者が続出するというのである。
いたるところで赤ん坊が、少女が、警察官達が、人々が失神しつつある。最後には大統領が観劇するオペラ「ジプシー男爵」の公演で、出演者全員が「大きな失神集団となってオーケストラ席に滑り落ちる」のである。
 志村正雄は解説で「テーマは大統領のカリスマ性とアメリカ的集団ヒステリーという伝統的なものである」と言っているが、そうであるにしてもバーセルミーの想像力はグロテスクなものだと言えるだろう。

ジョン・バース「嘆願書」八木敏雄訳
ドナルド・バーセルミー「大統領」志村正雄訳

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 志村正雄編『現代アメリカ幻... | トップ | 志村正雄編『現代アメリカ幻... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ゴシック論」カテゴリの最新記事