玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ヘンリー・ジェイムズ『聖なる泉』(6)

2015年06月09日 | ゴシック論
『聖なる泉』で最も特徴的なことは、「私」の論理が妄想かどうかということにあるのではない。それは小説の語り手である「私」と小説の作者であるヘンリー・ジェイムズ自身との関係性にある。
『ねじの回転』での語り手は、ジェイムズ自身とは離れた位置にいるが、『聖なる泉』ではそうではない。「私」の観察、推論、分析そのものがこの小説のほとんどすべての構成要素なのであり、それを作り出しているのはヘンリー・ジェイムズその人である。
「私」はヘンリー・ジェイムズその人の観察、推論、分析によってそうするのであり、「私」と作者自身は不即不離の関係を保っていなければならない。なぜなら、「私」はジェイムズの心理主義的方法それ自体を実行しているのだから。「私」はこの小説の方法自体に言及するのであり、作者もそのことによって小説が成り立っているのだということを自覚している。
 だから、「私」が「私」の理論を妄想だといって投げ出してしまえば、小説はそれ以上先に進めなくなる。小説中「私」は何度も自らの理論が妄想ではないかと疑うが、そのたびに「私」は疑いを克服して再起を果たしていく。そうしなければ『聖なる泉』という小説自体が成立しないのである。
 もし「私」が自身が妄想に取りつかれているのだと主張し始めたら、ヘンリー・ジェイムズがある意味自信をもって使用している心理小説の方法が、すべて破綻してしまう。そういう意味で『聖なる泉』は綱渡り的な小説なのである。あるいは作者と語り手との危うい均衡の上に成り立っている、危険極まりない小説だと言うこともできるだろう。
 だから、最後のブリセンデン夫人との対決の場面でも、「私」は素直に敗北を認めることができない。最後に再び自信を取り戻して、読者を煙に巻くしかこの小説は終わりようがない。もし「私」が敗北を認めてしまったら、『聖なる泉』の小説としての価値が失われてしまうからである。
 ヘンリー・ジェイムズにしても、そんな危うい道をいつまでも進み続けることはできなかった。ジェイムズもまた「私」のように、心理主義的な方法を決して捨てることはないが、それ自体を小説のテーマにするというような危険なことは二度とやらない。
結局、『聖なる泉』で極端にまで駆使した心理主義的方法は、後期の『鳩の翼』のような傑作にも活かされているわけであり、『聖なる泉』はヘンリー・ジェイムズ後期の傑作群を生むための、実験的な試みであったと言うことができるだろう。
(この項おわり)

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