玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ピーター・バナード「つた つた つた」(3)

2017年08月19日 | ゴシック論

「「ゴシック」は「過去」との特殊な関係による美的態度である」という、バナードがパンターの『恐怖の文学』から引き出しているテーゼは当たっていると思う。ゴシック・ロマンスが18世紀の啓蒙思想に目を背け、ひたすら中世の暗黒の世界への憧憬を語ったのは事実だからである。
 しかし、バナードの言う「特殊な関係」ということを掘り下げて考えるとすれば、それが単なる憧憬ではなかったということは指摘されなければならない。『ゴシック短編小説集』を編集したクリス・ボルディックの言うように「ゴシック」は「反ゴシック」でさえあったのである。
 中世的なものへの憧れは、中世的な抑圧に対する抵抗を内包していた。つまり「ゴシック」にとって、中世的なものは憧れの対象であると同時に、告発の対象でもあるという、極めてアンビヴァレンツな精神性をもっていた。そこにバナードの言う「特殊な関係」を見るとすれば、折口の『死者の書』にそうしたアンビヴァレンツな精神性を読み取ることはできない。
しかし「ゴシック」の最大の特徴はそこにあると思う。それは空間的には閉所恐怖と閉所愛好という矛盾を孕み、時間的には呪われた血統への恐怖と愛好という矛盾を孕んでいる。この「ゴシック論」で何回も引用しているクリス・ボルディックの以下のような定義は、「ゴシック」に我々が接するときの基本的な認識でなければならない(以下の引用でボルディックはアンビヴァレンツな精神性について触れているわけではないが、「ゴシック」自体の両義性を主張したボルディックにおいて、そこにアンビヴァレンスを読み取るのは自明のことである)。

「ゴシック的効果を獲得するために、物語は、時間的には相続することを恐れる感覚に、空間的には囲い込まれているという閉所恐怖的感覚に結びつけられるべきで、こうした二つの次元は、崩壊へと突き進む病んだ血統という印象を生み出すために、お互いを強め合う。」

 閉所恐怖はゴシック小説のほとんどすべての作品に該当するものであって、それは古城や地下牢、迷路や地下埋葬所への幽閉の恐怖という形を取る。それは石造建築のヨーロッパに独自の幽閉装置であって、まったく日本的なものではない。『死者の書』は墓の中で覚醒する滋賀津彦の亡霊の独白から始まっているが、閉所恐怖に呻吟するこの亡霊はしかし、『死者の書』の主人公ではない。
 また、呪われた血統への恐怖=相続恐怖は、キリスト教世界の原罪意識に根を持っていて、それはゴシック・ロマンスの掉尾を飾ったチャールズ・ロバート・マチューリンの『放浪者メルモス』の主要テーマをなしているし、E・T・A・ホフマンの『悪魔の霊酒』の主人公メダルドゥスを苛み続ける最大の要因であった。
 こうした原罪意識ほどに日本の文学に馴染みの薄いものはない。もちろん折口の『死者の書』にそれを読み取ることはできない。だから、バナードも言っているように「日本的「ゴシック」が存在するかどうかという問題」が成り立つのである。
 つまり言葉の本来の意味での「ゴシック」は日本においては存在し得ないし、もし「ジャパニーズ・ゴシック」というものがあり得るとしても、それはヨーロッパやアメリカにおける「ゴシック」とは似て非なるものと言わなければならない。
 だからヨーロッパ文学の影響をほとんど受けることのなかった泉鏡花のような作家が「ジャパニーズ・ゴシック」の代表だとしても、彼は語の本来の意味におけるゴシック作家ではない。
 話はわき道にそれるが、バナードが折口の『死者の書』における泉鏡花の影響を言っていることは正しいと思う。オノマトペの問題一つとっても、鏡花の作品には膨大な量のオノマトペが出てくるし、それが折口のオノマトペの使い方に影響を与えていることは明らかだと思う。
 ただし、鏡花のオノマトペは折口のそれのような奇態なものではなく、一般的に使われる類のものである。バナードは「つた つた つた」というタイトルをこの評論につける時に、日本幻想文学におけるオノマトペの系譜について考えていたのに違いない。

 


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