玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(17)

2019年01月29日 | ゴシック論

●ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』②
 あるいは大聖堂はエスメラルダにとってではなく、むしろクロード・フロロの欲望を閉じこめ、そしてゆがんだ形に増殖させる幽閉装置なのかも知れない。ならばアンブロシオのゆがめられた欲望を増進させる修道院という幽閉装置との共通性が指摘される。
 閉鎖空間で禁じられた欲望が悪魔として立ち現れるというプロットは、ルイスの『マンク』によって打ち立てられたもので、この小説を踏襲しなかったゴシック小説というものは考えられないのである。『マンク』の場合にはアンブロシオの欲望は男装のマチルダとしてあらわれるが、言うまでもなくマチルダは悪魔の化身である。
 禁じられた欲望の対象である女性が悪魔となるのは、欲望の主体を掻き立てる存在が女性であるからで、これは男性中心主義的で身勝手な欲望関係であると言える。
 そうした欲望関係をジュール・ミシュレが『魔女』において見事に描き出しているが、そのような関係性は〝魔女〟というものが禁じられた欲望を持つ主体が自ら作り出すものだという構造に起因する。自らの欲望が〝悪〟であるのは、女性が〝悪〟であるからなのである。
 つまり〝魔女〟とは女性のうちに投影された男性の欲望を意味しているし、そしてそれを正当化するのは教会の権威であり、アンブロシオの欲望とクロード・フロロの欲望はそのことにおいても共通している。『ノートル=ダム・ド・パリ』では、エスメラルダは魔女として捕えられ、処刑されることになるのだから。
『マンク』の影響を強く受けたE・T・A・ホフマンの『悪魔の霊酒』にあっては、主人公メダルドゥスの悪魔は自分自身の分身として立ち現れる。『悪魔の霊酒』での分身は欲望の構造に対する反省的な意識を起源としている。メダルドゥスは自分自身の欲望の内部に〝悪〟を見出し、悪魔はそこからつまりは自分自身の欲望のただ中に生起する。分身はだから、男性の自分自身の欲望に対する反省的意識の中から生まれてくるのである。
『悪魔の霊酒』における悪魔はだから、アンブロシオの悪魔よりも反省的であり、より複雑な欲望関係のうちにある。『ノートル=ダム・ド・パリ』のクロード・フロロの場合には、そのような反省的な意識は見られない。フロロはアンブロシオの次元に止まっているのだ。
 ではカジモドとは何であるのか。この二目と見られぬ奇形で醜い男は最初クロード・フロロの養子として登場するが、それ故に教会の権威から自由ではない。
 カジモドが公開の鞭打ち刑に処せられている時、一杯の水を飲ませてくれたエスメラルダに対する恩義が、彼女を教会という〝避難所〟に匿うという行動を起こさせるが、まだカジモドは教会の権威の中にいる。
 そしてエスメラルダを奪還しようとするジプシー達の集団に対しても、そこに誤解も働いて、家事も度はまだ教会の権威の内部に止まっている。しかし、エスメラルダに暴行を働こうとしたフロロを見て一転反抗の姿勢に転じ、フロロを大聖堂の塔から突き落とすのである。
 エスメラルダもフロロも、エスメラルダが恋心を寄せるフェビュス・ド・シャトーぺールも小説中で少しも成長しないが、カジモドだけが成長していく。『ノートル=ダム・ド・パリ』はそういう小説なのだと思う。
 しかし『ノートル=ダム・ド・パリ』を小説として読んだ時に、もっとも強く感じるのはメロドラマ性である。それは初期のゴシック小説によくあることでもあって、この小説のストーリーの中に入れ子のようにして入っている、生き別れになった母と娘の再会の物語において、それは典型的である。
 さらにメロドラマに付きもののご都合主義についても、いちいち指摘していたらきりがない。カジモドは耳が聞こえないはずなのに、都合のいい時だけカジモドの耳は聞こえてしまう。第一鐘の音で聴力を失った男が、鐘撞き男として正確に鐘を撞くことができるはずがない。
 こうしたご都合主義はまだまだいくらでも指摘できるが、それほど意義があるとは思えないので、この辺で建築の問題に戻ることにしよう。

 


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