玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

建築としてのゴシック(20)

2019年02月01日 | ゴシック論

●ヴィクトル・ユゴー『ノートル=ダム・ド・パリ』⑤
 第5編第2章「これがあれを滅ぼすだろう」に移る。この謎めいたタイトルは直前の第1章、お忍びでノートル=ダムのクロード・フロロのところへやってきた、サン=マルタン修院長ことルイ11世とのやりとりの中で、フロロが一冊の書物と大聖堂を見比べながら、「ああ! これがあれを滅ぼすだろう」と言う、その科白からきている。
〝これ〟とは書物を指し、〝あれ〟とは建物を指している。一面ではそれはグーテンベルクの印刷術を前にした聖職者達の恐れ、「ゆくゆくは知性が教義の足もとを掘りくずし、世論が信仰をその王座から蹴おとす」のではという恐れを意味している。つまり「印刷術は教会を滅ぼすだろう」ということである。
 もう一面ではそれは「じょうぶで持ちのよい石の書物も、さらにいっそうじょうぶで持ちのよい紙の書物に取って代わられる」ことへの予感、つまり「印刷術は建築術を滅ぼすであろう」ということなのだ。〝石の書物〟とは何か。それは建築物のことである。ここから建築に対する我々の常識的見解を覆す、ユゴーの議論が展開される。
 まずユゴーは石の建築の歴史をたどる。最初は一つの象形文字のような石柱であり、それが単語にたとえられるべき巨石墳や巨石碑に発展していく。さらにたくさんの石を組み合わせて文章としての大きな建物を、書物としての建築物をつくるようになっていく。次のようにユゴーは言う。

「建築術は人間の思想とともに発展したのである。建築は無数の頭や無数の腕をもった巨大な姿となり、永遠不滅の、目に見え手で触れることのできる形態のもとに、浮動するあらゆる象徴を定着させたのである。」

ユゴーはさらに続けて、

「こんなわけで、世界がはじまってから六千年のあいだ、太古のヒンドスタンの塔からケルンの大聖堂にいたるまで、建築は人類の書いた偉大な文字の役目を務めてきたのだった。これは少しも疑えない事実であり、宗教的象徴は言うまでもなく、人類が抱いたありとあらゆる思想は、記念碑や建築物の中に記入されていると言ってよろしい。」

 このような考え方は石の文化、石造建築の文化なしにはあり得ないもので、木造建築の文化の我々日本人にはちょっと発想できないものではないだろうか。象徴や思想を定着させるためには、それを表現する材料が堅固で長持ちするものでなければなら

ない。石造建築はそれにもっとも適したものであったと言えるだろう。
 だからユゴーの考え方はそれほど特異なものではなく、後のJ・K・ユイスマンスも「ノートル=ダム・ド・パリにおける象徴表現」で、彫像や図像も含めたノートル=ダム大聖堂のあらゆる建築要素がカトリックの教義の象徴となっており、それは一巻の聖書そのものであることを詳細に示した。
 しかし、ユイスマンスがその宗教的要素にしか言及しないのに対して、ユゴーは「宗教的象徴は言うまでもなく、人類が抱いたありとあらゆる思想」と言っているところに違いを読み取らなければならない。
 ユイスマンスはノートル=ダムのガーゴイルやキマイラ達のことに触れていないが、それは宗教的解釈を許さない部分だからであり、彼はそれに触れることができない。そこには奔放な人間の想像力の跳梁を読み取るべきで、それらはカトリックの教義を逸脱さえするものであったはずだ。
だから私はユイスマンスの純粋性に惹かれる気持ちはあるが、結局はユゴーの考え方の方に与しないわけにはいかない。ユゴーの考え方は教会建築の中にどうして、あの様なグロテスクな要素が存在するのかということを説明可能なものとするからである。

キマイラたちと聖人像の混在


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