玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

コルム・トビーン『巨匠』(1)

2022年01月27日 | 読書ノート

 コルム・トビーンなどというまったく知らない人の本を読むことにしたのは、その本の副題に「ヘンリー・ジェイムズの人と作品」とあったからだ。私はずっとヘンリー・ジェイムズの作品を追い続けてきたし、これまで数冊の研究書も読んできた。しかしその中には日本人の書いたもの以外は含まれていない。ならば、外国人の書いたジェイムズの研究書を読んでみようという気になったのも不思議なことではない。
 これまでに読んだジェイムズの研究書は、中村真一郎の『小説家ヘンリー・ジェイムズ』(これは研究書というよりは評論)、青木次生の『ヘンリー・ジェイムズ』、歿後100年を記念して日本で出版された『ヘンリー・ジェイムズ、いま』などで、『ヘンリー・ジェイムズ、いま』は酷い内容だったが、それ以外の本からは色々と示唆を受けることができた。特に昨年9月に出た大畠一芳の『ヘンリー・ジェイムズとその時代』は、とてもいい本で、啓発されるところ大であった。
 そんなわけで『巨匠』も読んでみようと書店に注文したのだったが、着いてびっくり。なんとこれはアイルランドの作家コルム・トビーンによる小説であったのだった。もちろん原題には「ヘンリー・ジェイムズの人と作品」などという副題は付いておらず、単にThe Masterという実に素っ気ないタイトルなのであった。
 一瞬失敗したな! と思ったが、トビーンがアイルランドの作家であることに注目した。ヘンリー・ジェイムズの祖父ウィリアム・ジェイムズが、アイルランドからの移住者であったからである。大畠の本にはその辺の事情が詳しく書かれていて、祖父ウィリアムの厳格なピューリタニズムが、その子ヘンリーに与えた屈折した影響、父ヘンリーが二人の息子、ウィリアムとヘンリーに及ぼした影響などについて書かれていたからだ。
 そうしたことが書かれているのではと期待したが、この本に付された「日本語版に寄せて」をまず読んでみると、まったくそうではないことが分かった。この小説は11の章からなっていて、それぞれ1895年1月から1899年10月までの日付が各章のタイトルとなっている。この5年間に絞って書かれているのは何故かといえば、その間にジェイムズの偉大な後期三部作『使者たち』『鳩の翼』『金色の盃』が、彼の中に胚胎されていくからであり、トビーンはそれを跡づけたいという意図を持っていたからだという。
 実際に『使者たち』が書き始められるのは1899年のことだし、1895年にジェイムズが書いた戯曲『ガイ・ドンヴィル』がロンドンで上演され、大失敗に終わったために彼が再び小説へと戻っていくことになったという時期は重要なものに違いない。この5年間にジェイムズが書いた作品は、私の好きな『ポイントンの蒐集品』と『メイジーが知ったこと』と、あの大傑作『ねじの回転』が含んでいる。
『巨匠』という作品が小説家を主人公としたものである以上、その作品についての情報が作中で語られるのは当然のことだが、この作品で最も頻繁に触れられているのは『ある貴婦人の肖像』であり、『ロデリック・ハドソン』であって、大事な後期三部作についてはほとんど触れられていない。『使者たち』について多少の言及があるに過ぎない。 
 そのことにまず疑問を感じないわけにはいかない。そう思いながら、退屈な人生を送ったヘンリー・ジェイムズの伝奇小説など、さぞ退屈極まりないものだろうと、予想を付けながら読み進めることにした。

・コルム・トビーン『巨匠』(2021、論創社)伊藤範子訳