玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

コルム・トビーン『巨匠』(2)

2022年01月28日 | 読書ノート

 確かに退屈な小説である。お話は『ガイ・ドンヴィル』上演の大失敗のことから始まるのだが、主人公ジェイムズの感情の起伏や心理の機微が見えてこない。トビーンはこの小説に、ジェイムズに倣って視点の方法を取り入れ、ジェイムズその人を視点人物として他の登場人物たちとの接触を描いていくが、ジェイムズの小説に見られる見事な分析力が微塵もない。
 ジェイムズの小説もある意味では退屈であり、それは彼の小説にどのような目を見張るドラマもなければ、破局的な事件も起きないからなのだが、しかしそこには心理のドラマが圧倒的に展開しているのであって、感情の激発や心理の動揺はこの上なく徹底して描かれているからだ。そんな意味で確かにヘンリー・ジェイムズは、それこそ〝巨匠〟と呼ばれるべき大作家であったのだという思いを強くする。だからある意味で、ジェイムズという作家を主人公にした小説を書こうなどという試みこそ、無謀なものと言わざるを得ない。
 この小説でジェイムズはいつも優柔不断で受動的な人間として描かれているが、それは次のようなトビーンの見方によっている。

「彼はよそよそしく、洗練されていて、大体において寡黙な人で、中年で、過去の人びとの影がまつわりつき、活気があるのは仕事のときくらいである、そういう人物に思われた。」

 これもトビーンが「日本語版に寄せて」で言っていることだ。外から見ればそのような人物であったかも知れないが、実際にそんなことはあり得ない。あれだけの人間心理に対する分析力を発揮した人間が、単に優柔不断で受動的な存在であったはずがないからである。絶えず観察し、他者の心理と自身の心理に分け入り、絶えることなく分析を続けた人間であったヘンリー・ジェイムズがこの小説に描かれたような人物であったはずはないのである。
 そういう意味でヘンリー・ジェイムズという人間を知るには、その伝記よりも、研究書よりも、おそらくは自伝よりも、彼の作品を読むに越したことはないのである。そこでは彼の観察力と分析力が躍動しているし、人間が外見によって測られるのではないとすれば、ジェイムズの人間性は彼の作品の中に極めて歴然と刻印されているのだし、それを見なければ何を見たことにもならないからだ。
 トビーンの小説はだから退屈極まりないものとなる。「もういいや」と思いながらも私はしかし、何か出てくるのではないかと期待して読み進め、結局最後まで読んでしまうのだった。作者は何を描きたかったのだろうか?
 この小説には実在の人物だけではなく、作者の創造した人物がおそらく一人だけ出てくる。失意のジェイムズを歓待するウルズリー卿の召使いで、退役軍人のトム・ハモンドという人物である。ジェイムズとハモンドの会話の途中に思わせぶりな場面が挿入されてくる。

「ハモンドが彼をまたじっと見ていた。不作法なくらい強烈に彼を観察していた。ヘンリーはできるだけ落ち着いて彼の凝視する目を見返した。沈黙があった。等々ハモンドが目をそらせた。思いにふけり、沈んでいるようだった」

 この場面はハモンドとジェイムズの間の同性愛的な感情を仄めかしたものであり、このパターンは小説の後半でもう一度繰り返される。今度の相手は、ローマにおける美貌の若き彫刻家ヘンドリック・アンデルセンである。二人の同性愛も同じようにジェイムズが見つめられることから始まっている。そして今度は仄めかしに留めることなく、明らかに同性愛関係に発展する場面をトビーンは描いている。
 ここでもトビーンはジェイムズの受動的な愛情のあり方を強調したかったのだろう。ハモンドは作者によって創造された人物であると明かされているが、アンデルセンの方はそうではない。だとすると、この男は実在の人物なのか? しかしこの男の人物像が『ロデリック・ハドソン』の天才彫刻家ロデリック・ハドソンに、あまりにも似ているために疑問を感じてしまう。人物像だけではなく、この男のおかれたシチュエーションまで『ロデリック・ハドソン』そっくりで、作者は『ロデリック・ハドソン』におけるハドソンとローランド・マレットとの間の関係に、ジェイムズの実際の同性愛嗜好を読み取っていて、それを虚構として紛れ込ませているのではないかとさえ思われてくる。