玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

鈴木創士『分身入門』(4)

2022年01月16日 | 読書ノート

 ここから始まって、鈴木はニーチェ、夢野久作、ジャコメッティとジュネ、ベケット、サド、坂口安吾などを縦横に論じていくのだが、いつでもキーワードとなるのは「分身」である。

 ニーチェはワーグナーの妻コジマへの手紙に、自分がかつてディオニュソスであり、シーザーであり、ヴォルテールであり、ナポレオンであり、さらにあろうことか、あのキリスト(アンチ・キリストについて書いた人なのに)でもあったという妄想にも似た確信を書き綴っている。

 鈴木にとってそれは「絶対的分身」であり、「絶えず回帰する離接的綜合は、「イマージュ」のいってみれば物質的な絶対性、無軌道であまりにも幽霊じみた光と時間の物理学的関係を成立させているはずのもの」と言い得るものなのである。こうした言い方は序文での議論に共通していて、いかに彼がイマージュとしての分身という観念に囚われていたかということを証明しているように見える。

 しかし、鈴木の議論は坂口安吾についてのエッセイを例外として、ほとんどが難解であり、まるでジャック・デリダかジャック・ラカンを読んでいるような気持ちにさせられてしまう。とりわけ第Ⅰ部の中間点に位置する、「身体から抜け出す身体」というエッセイの難解さは度を越えている。このエッセイの背後にはアントナン・アルトーの「器官なき身体」という考え方があるのだが、私はアルトーについてはさっぱり知らないので、ほとんど追跡困難である。

 そうか! 「器官なき身体」ということを言ったのは、ジル・ドゥールーズではなくてアルトーだったのか。私にはその程度のことしか分からないのだ。しかし、鈴木の文章の中に理解のためのヒントはいくつもある。「器官なき身体」は「ひとつの充溢身体」と言い換えられているし、過呼吸の体験時に捉えられた身体は〝言葉の毒〟と関連づけられている。以下の一節が理解の鍵を与えてくれる。

 

「いままでずっと首と後頭部は鉄の鎧でできているみたいに感じていた。ボンノクボはさながら闇の鉄栓、裏返しになった暗闇の入口、その錆びついた堰門だ。ここから毒が下に向かって、からだの下方に重力の法則どおりに滴り落ちる。毒は何からできていたのだろう。たぶん「言葉」に違いない。そしてからだは一気に硬直する。痙攣なしの強直性痙攣。たまには痙攣したこともあったかもしれない」

 

 言葉は毒と捉えられていて、それは「器官なき身体」を硬直させるのである。だから「器官なき身体」とは言葉に侵蝕される以前の身体のことでもあり、あるいは言葉によって整序され損なった身体のことを指しているのかも知れない。次のような一節を読めば、言葉が身体に入ってくるときにタイミングを失してしまえば、そこに一切の器官は生成されないと鈴木が理解していることが判るだろう。

 

「だが、この瞬間をすかさずとらえなければ、私の身体がうまくその通路、円筒、チューブ、連通管になることはないだろう。なぜなら表現と内容は私にとってずっとただひとつの同じものでありながらも、結局私は私の存在と非存在の間で宙吊りのままの言語活動に引きずり回されることになるからだ。さもなくば、私はただのざわめきになってしまうだろう。ざわめきは最後には塊りとなるだろう。たぶん癌化はその一 例である」

 

 おそらく、アルトーに触発されたこの身体と言葉との確執の体験こそが、この本『分身入門』を成立させているものなのである。言葉の毒に侵蝕される身体もまた、分身の一種ということになるだろう。身体の恢復は言葉からの離脱にあるのだとしても、決して言葉を離脱することなどできるはずもない。分身は人間にとって、そのようにして宿命づけられているのである。

鈴木のこの本は、ある意味で分身という概念を人質にして、読者を脅迫しているようにさえ見えてしまう。我々は我々自身の分身(それは到るところに遍在する分身の一部であるわけだ)をネタに、鈴木によって身代金を要求されているわけである。これが鈴木の『分身入門』における戦略的方法でなくてなんなのであろうか。

 

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