玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

鈴木創士『分身入門』(2)

2022年01月14日 | 読書ノート

 引用した文章について、物の分身とはヴァーチャル・リアリティのことではないのか、だとすればなぜこの文章を〝説得的〟などと言い得るのか、と反論する声が聞こえる。しかし、分身はヴァーチャルでもあり得ず、そこに実体として存在する。この文に続くのは次のような一節である。

 

「いまやあらゆるイマージュはわれわれの暮らす世界のあちこちでアーカイブとして保存されている」

 

 あらゆる〝もの〟がデジタル情報として世界の到るところに格納され、あるいは再現されている。それらがデジタルである以上、模像にすらなり得ない実体なのである。それらは否応もなく実体であってしまうとさえ言えるだろう。

 そして鈴木が言うように、それらの情報を追体験すること、強迫観念に駆られるようにして追体験しようとすることは、精神病をしかもたらさず、「われわれは発狂するだろう」というわけである。古典的な分身が我々に死をもたらす不吉な兆候であるとするならば、分身が情報として拡散する世界は、我々に狂気をもたらすことになるだろう。

 分身の増殖・拡散の問題だけでなく、『ランボー全詩集』の訳者でもある鈴木創士は、「私」というものの他者性ということも問題として提起する。長くなるが、ここが肝心なところなので、省略なしに引用する。

「ところで、これらの文章を書いたのはほんとうに私なのだろうか。だがランボーのように、「私」は私ではない、とさまざまな場面で言うのは非常に難しい。社会はそれを許さないが、ここには少なくとも名指されない、あるいは名指されそこねて逆に「私」を名指そうとする抵抗する身体がある。それはもちろん社会的身体などではない」

「それに私は私ではないが、ここにいて語っているのは私だけであり、記憶のなかに見え隠れする

「私」のイマージュのように、時には私は私を選び、私を利用し、あるいは私を消すこともある。 だがそれでも聞こえた音が耳のなか以外のどこかに残存するように、「私」は何かの残滓でありながらも、私の所有権を奪うものとしてあるか、もともと所有関係というものを持ってはいないのだ。主体性はつねに「事物」を組織しているとしか言いようのない非主体性に送り返されるか、再びここに戻って来るしかない」

 

 鈴木がいきなり「これらの文章を書いたのはほんとうに私なのだろうか」と書き付けるのは、当然ランボーの言った「私は他者である」という言葉を想起しているからである。しかし、それがどうして分身の問題と関わるというのだろうか。

 それは、私が他者である限りにおいて、私もまた一個の分身であるからに他ならないからだ。私が他者であるのは、私(玄文社主人)に言わせれば、私の言語が他者の言語に深く侵蝕されているからであり、他者の言語をおいて他に私という物を形づくる何ものもないからなのである。

 だとすれば、私は私にとって分身であり、私の発言は分身の発言でしかない。そして分身というものが現在において、増殖・拡散するものだとすれば、私もまた増殖・拡散する。分身は私の模像ではないし、私が実体で分身が虚像であるとも言えない。もはや分身もまた実体なのである。

 こうした構造は、書く者としての鈴木を、途方もない不安に追い込むだろう。しかし、鈴木は書き続けるしかない。そのことによってしか「名指されそこねて逆に「私」を名指そうとする抵抗する身体」に近づくことも、それを維持することもできないからである。