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玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ロベルト・ボラーニョ『2666』(1)

2015年12月26日 | ラテン・アメリカ文学

 よやくロベルト・ボラーニョの『2666』に辿り着いた。しかし、読み終わって一か月ほど経っているので、細部については忘れてしまっている部分もある。しかもA5判2段組、870頁という恐るべき大冊であって、全部覚えていられるものではない。
 同じチリの作家としてホセ・ドノソを、同じメキシコを舞台に書いた作家としてカルロス・フエンテスを参照するのみであるが、ドノソの『別荘』を読んだあとのような、人生の難局を乗り越えたような虚脱感のようなものは、まず感じることはない。そしてフエンテスの『ガラスの国境』にあるような、感動的なコーダとしての終局もない。
『2666』を一回読んだだけで、ボラーニョという作家を理解することなどできないのだろうが、まず掴みどころがないということは言える。第一部から第四部まで読み進んでもなお、「この作家はいったい何を書きたいのだろうか?」という疑問を感じるばかりであったことを告白しなければならない。
 とにかく、部ごとに一つの小説として読んだ場合に、様々なエピソードが並列的に叙述されていくばかりで、そこに伏線が張られているわけでもないし、大きな起承転結があるわけでもない。叙述は淡々としていて、まるでハードボイルド小説を読んでいるような感じである。
 特に第四部「犯罪の部」は、メキシコ北部のマキラドーラの町サンタテレサで起こる、200件もの連続女性強姦殺人事件を、犯罪調書のように執拗に連ねていく構成になっていて、「この偏執狂的な執念はいったい何なんだ?」という気持にさえなる。
 一つ確認しておかなければならないことがある。ドノソやフエンテスはいわゆる「ラテンアメリカ文学のブーム」の第二世代にあたる作家であるが、ボラーニョはそれ以降の、言ってみればブームの後の世代に属するということである。
 そして、ドノソやフエンテスには(他の多くのラテンアメリカ作家に共通することだが)故国への反語的な愛着が抜きがたくあるのに対し、ボラーニョにはそれがまったく感じられないということも言っておかなければならない。ボラーニョは故国チリのことにはほとんど触れないし、メキシコで育った者としてメキシコに対する反語的名愛着を持っているわけでもない。
 ホセ・ドノソは『ラテンアメリカ文学のブーム』の中で、"国際化"ということについて次のように書いている。
「固有の文学的父親の不在というこの事実ほど、われわれの世代を豊かにしたものはないと私は思う。われわれは大きな自由を与えられ、先に述べた空白が、いろいろな意味で、イスパノアメリカ小説の国際化を可能にしたのである」
 つまり、ラテンアメリカの作家達は故国の文学に規範を持つことなく、ヨーロッパやアメリカの文学にそれを求め、それだけでなく多くが故国を離れて(政治的亡命や自主的亡命をも含めて)ヨーロッパやアメリカで生活したために、豊かな国際性を与えられたのである。しかし、その国際性は自らの出自としての故国への強い愛憎と深く結びついていた。
 カルロス・フエンテスのすべての小説にその痕跡が窺える、と言うよりも彼はそれをこそ生涯にわたる文学のテーマとした。政治的には無関心であったホセ・ドノソでさえ、故国の政治状況に強い関心を持たざるを得ず、それが『別荘』という傑作に結実したということは、彼らがある国際性をもって故国を凝視したことを意味している。
「ラテンアメリカ文学のブーム」と呼ばれる世代の作家達は、皆そのような体験を持っている。故国から越境することで真に故国について語ることができたのである。だから、ラテンアメリカ文学こそは"越境の文学"と呼ばれなければならない。そして、そのためには"越境"が"越境"として意識されていなければならない。
 しかし、そのような事情はロベルト・ボラーニョには当てはまらないように思われる。ボラーニョは『2666』で、アメリカやヨーロッパのあらゆるところを舞台にしてみせる。フエンテスのような"国境"に対する拘りはないのである。
 ボラーニョは"越境"を"越境"として意識しない、真の意味での国際的作家として位置づけられるのであろう。

ロベルト・ボラーニョ『2666』(2012,白水社)野谷文昭・内田兆史・久野量一訳

 

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