第1部「批評家たちの部」は、ベンノ・フォン・アルチンボルディというドイツ人作家についての謎の提示によって始まる。アルチンボルディは謎の作家である。ノーベル賞候補とされながらも、誰も素顔を知らず、どこにいるのかさえ分からない。
四人の批評家達が登場する。フランス人ジャン=クロード・ペルチエ、スペイン人マヌエル・エスピノーサ、イタリア人ピエロ・モリーニ、イギリス人リズ・ノートンがそれで、四人とも学者でありアルチンボルディの文学に深く傾倒している。
いきなりこの小説の国際性が明示されるわけで、彼らはヨーロッパやアメリカ各地で開かれるアルチンボルディをめぐる学会で顔を合わせるようになり、次第に友情で結ばれるとともに、リズ・ノートンをめぐって三角関係あるいは四角関係を繰り広げることになる。しかし、多分このような愛の物語はどうでもよいことなのであって、ボラーニョは彼らの愛の帰趨に特別拘ることなく、ひたすらエピソードを積み重ねていく。
「批評家たちの部」全体というよりは、一つひとつのエピソードに注目せざるを得ないのであって、私もまた、ボラーニョが繰り出す様々なエピソードについて断片的に語ってみることしかできないだろう。
スイスの精神病院で批評家たちが出会う、エドウィン・ジョーンズという画家のエピソードがある。「その画家は、自分の右手、絵を描く方の手を切り落とし、防腐処理を施すと、一種の多重自画像にそれをくっつけたのだった」と紹介されるその画家は、なんとアルチンボルディの本を所有していたのである。
「何という偶然だ」とモリーニは言うが、作者並びに読者にとってはそんなものは偶然でも何でもない。これは批評家達が謎のアルチンボルディに接近していくためにどうしても必要な"偶然"なのであって、作者がそう仕掛けているだけなのだ。もう一つ重要なことは、この画家とアルチンボルディを狂気の領域の中で結びつけようとする作者の意志に他ならない。
エドウィン・ジョーンズは"偶然"について次のような演説を行うのだが、それは明らかにボラーニョの小説論の断片として読まれなければならない。
「偶然は法則に従わないし、仮に従うとしても我々はその法則を知らない。偶然とは、譬えて言うなら、この地球において、絶えず意思表示を行う神のようなものだ。不可解な自分の創造物に向かって不可解な身振りを行う不可解な神だ」
神を小説家と読み替えればよい。小説家とは神のような完全なる自由において、偶然を支配するのであるし、不可解な登場人物に向かって、不可解な偶然を差し向ける不可解な神なのである。ジョーンズのこの言葉を『2666』のエピグラフとして読むことも可能なのだ。
モリーニは「自分の手を切り落としたのはなぜですか?」とジョーンズに問う。ジョーンズは「私にそれを訊くことにどんな意味がある?」と返すのだが、最後にはモリーニとペルチエに対して耳打ちして何かを話す。しかし、ボラーニョはその言葉を読者に洩らそうとはしないし、二人に話したことが同じなのかどうかについても語ろうとしない。
作者は偶然を支配すると同時に、大事なことを語らずに黙したままでいることもできる。この応答はそのことを示している。小説において何も語らないことは、何かを語ることよりも重要な結果をもたらすことができる。
ボラーニョは870頁もある、ほとんど饒舌と言ってもいいこの『2666』の中で、何も語らない権利を十二分に行使している。重要なことは何も語られない小説なのだ。だから読者はその掴み所のなさに、時に不安さえ覚える。そうでなければ、謎のドイツ人作家アルチンボルディをめぐるこの長大な物語に、読者がついていくことなどできはしないだろう。
ところで、批評家達がアルチンボルディの手がかりを求めてメキシコへ向かう直前、モリーニだけが出発を取りやめる場面がある。モリーニはそれを、フランス19世紀の作家マルセル・シュオッブが、敬愛するスティーヴンスン(『宝島』の作者)の墓をサモアに訪ねる旅で、健康状態のこともあったが、「死んでいない人間の墓参りをする必要はない」という理由から(スチーヴンスンは彼の中に生きているのだから)、墓参りを取りやめたという理由に帰している。
今年国書刊行会から出版された『マルセル・シュオッブ全集』のリーフレットには、シュオッブに影響を受けた作家達として、ヴァレリー、ジード、ボルヘスの他にボラーニョも挙げられている。本当か? あのフランスの幻想文学作家が書いたものに共通する部分を、私は『2666』の中に発見できないが、他の作品にはそれが見られるのだろうか? 知りたいところである。
マルセル・シュオッブ『マルセル・ショオッブ全集』(2015、国書刊行会)大濱甫/多田智満子/宮下志朗/千葉文夫/大野多加志/尾方邦雄 訳