ホセ・ドノソの『別荘』の後に読んだのは、同じチリの作家ロベルト・ボラーニョの『2666』であり、カルロス・フエンテスの『ガラスの国境』はその後に読んだので、本来ならボラーニョの『2666』を先に取り上げなければならないのだが、そうしないのには訳がある。
ボラーニョの『2666』は五つの部から成っていて、それぞれ独立した小説として読むこともできる。フエンテスの『ガラスの国境』の方は九つの短編から成る短編集であるが、それぞれが関連していて、連作短編集と呼ぶこともできるし、ひとつの長編として読むこともできる。
『2666』には五つの部を通して共通する人物が出てくるし、テーマもある一つのことに収斂していくという構成になっていて、『ガラスの国境』もまた同様である。ただ長さが圧倒的に違っているので、『ガラスの国境』を連作短編集と呼ぶなら、『2666』は連作長編集と呼ばなければならない。
共通点はそれだけではない。『ガラスの国境』とはアメリカ合衆国とメキシコ合衆国の透明ではあるが強固な国境を意味していて、舞台は主にメキシコ北部の国境地帯に設定されている。『2666』の主要な舞台もまたメキシコ北部のサンタテレサという町に設定されているのである。
さらに『ガラスの国境』では、アメリカとメキシコとの間の国境を越えた往還が、登場人物達が辿る軌跡であるのであり、それは『2666』にも共通している。
またサンタテレサという架空の町は、1965年にできた保税加工制度(後ほど詳しく説明する)によって、メキシコ北部の都市に乱立したマキラドーラと呼ばれる工場群のある工業都市であり、そこで起きる事件が中核になっているのが『2666』という作品である。
同じように『ガラスの国境』にも、マキラドーラとそこに勤める女工達が登場している。マキラドーラはアメリカとメキシコの国際的矛盾の象徴として捉えられていて、その点でも『2666』と共通しているのである。
ロベルト・ボラーニョの『2666』という巨大で錯綜した作品を読む時に、カルロス・フエンテスの『ガラスの国境』は極めてよい手引きとなるだろう。フエンテスはメキシコ人であり、ボラーニョはチリに生まれメキシコで育った作家であった。『2666』が刊行されたのは、ボラーニョの死後の2004年、『ガラスの国境』の方は、1995年でそれほどかけ離れた時期に書かれたものではない。
ところで『ガラスの国境』を読む時に、まず我々が我々自身のうちに気づかされるのは、メキシコとメキシコの歴史に対する徹底した無知に他ならない。訳者の寺尾隆吉は小説に注を付けるのを好まないから、理解できないスペイン語や英語がたくさん出てくる。
だから読み終わってから分からないスペイン語や英語(人名や地名であったり、食べ物の名前であったり、経済や政治に関わる用語であったり)を、インターネットで徹底的に調べてみる必要がある。特に我々はメキシコの歴史についてほとんど知らないから、歴史に関わる人命や地名については知っておく必要がある。本当は「メキシコ史」の類をきちんと読むに超したことはないのだが……。
しかしインターネットによる調査だけでも、『ガラスの国境』についての理解は格段に深まるだろう。しかもそれはボラーニョの『2666』を読む上でも、非常に有益なものとなるのである。
カルロス・フエンテス『ガラスの国境』(2015,水声社「フィクションのエル・ドラード」)寺尾隆吉訳