③―2
だから「読者が実体験とこの小説を混同」しないようにするというドノソの試みは、「この話は作り話にすぎない」という緒言によってではなく、ドノソが繰り出す現実にはあり得ない途方もない物語や、現実にいるはずもない登場人物などによって達成されるのであり、それはまた、次のような方法意識に支えられているだろう。先の緒言に続く部分である。
「この物語を読む際に起こる融合――私が言いたいのは、読者の想像力と作者の想像力を一つにする瞬間のことだ――は、本物の現実を装うところからではなく、現実の「装い」が常に「装いとして」受け入れられるところから生じるはずであり、その意味でこの小説は、本当らしさを通して別の現実、現実世界と併存し、それによって、いつでも接触可能なもう一つの現実を構築しようとする小説とは、根本的に違う方向を目指している。」
これこそドノソが真に言いたかったことであり、読者に対する宣言であるのに他ならない。このような宣言を小説の中で行うことがいかに異例であるにせよ、この途方もない物語の中にそれを仕込んでおかなければ、作者の気が済まなかったのだろう。
この宣言はある種の小説論として論争的な性格を帯びざるを得ない。だから次のような結論が導き出されることになる。
「フィクションでありながらフィクションでないように見せかけるような偽善は、私に言わせれば唾棄すべき純潔主義の名残であり、私の書くものとはまったく無縁であると確信している」
これはアリアリズム小説に対する全否定の言葉として読まれなければならない。「フィクションでありながらフィクションでないように見せかけ」、「本当らしさを通して別の現実、現実世界と併存し、それによって、いつでも接触可能なもう一つの現実を構築しようとする」小説など、ドノソにとっては許し難いものであった。
こうした反リアリズム的主張はドノソが1972年に書いた『ラテンアメリカ文学のブーム』に、自伝的要素を入れながら全面展開されている。ドノソは自分たち以前のチリの文学に伝統的リアリズム以外の何ものをも見いだせなかったし、彼らを師と仰ぐことなどとうていできずに呻吟していた。
ドノソが学んだのはヨーロッパの新しい作家達、サルトルやカミュ、ギュンター・グラス、ロレンス・ダレルであり、フランスのヌーボーロマンの作家達であり、アメリカのサリンジャー、ミラー、ゴールディングなどであり、ラテンアメリカの伝統に学んだのではまったくない。ドノソは書いている。
「今日のイスパノアメリカ小説(ラテンアメリカというとポルトガル語圏のブラジルをも含むが、スペイン語圏のアメリカを意味している=筆者)は、そもそも混血として、イスパノアメリカの伝統(スペイン的ならびにアメリカ的な伝統という意味で)を知らずに出発したのであり、そのほとんどがそれ以外の文学的源泉に由来している」(内田吉彦訳)
そしてドノソはそれを「父親の不在」「親のいない孤児の感覚」と表現している。ドノソのこの言葉は、いわゆるラテンアメリカ文学のブームを担った作家達のほぼ全員に当てはまるのであり、反リアリズムとしてのラテンアメリカ文学の由来というものを正確に言い当てている。
そして、ドノソの眼を決定的に開かせたのは、メキシコのカルロス・フエンテスが1958年に書いた『空気の澄んだ土地』(2012年に現代企画室から『澄みわたる大地』の邦題で出版)であった。ドノソはこう書いている。
「カルロス・フエンテスのこの小説には締まりも簡素なところも、また事実を記録したところもなく、逆に、人種や、嗜好や、ことばや、形式の、あらゆる不合理の統合、包摂であった。作為的なものが自然なるものを凌駕し、創造がリアリズムを支配し、小説以前の統一などには一切囚われず、強力な個人の見方を優先させたものであった」
ドノソは何年もの間『夜のみだらな鳥』を書きあぐねて苦しんでいたが、フエンテスのこの作品を読むことによって、小説完成への道を切り開くことができたのであった。「作為的なものが自然なるものを凌駕し、創造がリアリズムを支配」する作品として、我々は今日『夜のみだらな鳥』と『別荘』の二大傑作を読むことができるのである。