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朝日新聞「演説中のヤジ、選挙妨害?」を読んで

2017-10-24 11:09:02 | マスコミ
 私は17日に「選挙演説の妨害を称揚する朝日新聞」という記事を当ブログに書いたが、18日付朝日新聞朝刊の社会面には、こんな記事が載っていたので、注目して読んだ。

演説中のヤジ、選挙妨害?

 公選法基準なし■静穏に聞く権利は

 街頭演説にヤジはつきものかと思いきや、最近は「選挙妨害だ」と弁士たちが反応する場面が目立つ。街頭演説は黙って聞くべきなのか? 演説中に聴衆が意思を示すのはダメなのか。街頭演説の「作法」とは――。

 「わかったから、黙っておれ!」
 14日、大阪府守口市での街頭演説で、二階俊博・自民党幹事長のこんな声が響いた。演説中、聴衆から「消費税を上げるな」との声が上がり、その後もヤジがやまなかったためだ。
 安倍晋三首相もあちこちでヤジを浴びる。15日の札幌市の街頭演説では「辞めろ」「安倍内閣は金持ちの味方だ」といったヤジが飛んだ。演説中に「やめろ!」というプラカードが掲げられる一方、逆に聴衆から「静かにしろ」などの声が上がることもある。
 演説中のヤジやコールに焦点が当たったのは、7月の東京・秋葉原で安倍首相が発した言葉がきっかけだ。東京都議選の応援演説中に、首相に対する「帰れ」「やめろ」のコールが起こり、首相は「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と返した。
 菅義偉官房長官は記者会見で「妨害的行為があった」と述べたが、小林良彰・慶大教授(政治学)は、「公選法に明確な基準がない以上、マイクを取り上げるなど物理的行為がなければ、選挙妨害とまでは言えないのではないか」とみる。一方で、「聴衆が演説内容を聞くことができなければ、選挙妨害に該当する可能性が高い」(岩渕美克・日大教授=選挙研究)との見方もある。
 演説中のヤジは昔からある。NHKの映像によると、1960年に浅沼稲次郎・社会党委員長が刺殺された演説会には、右翼団体が入りこみ「演説が聞き取れないほど」のヤジを飛ばしていた。古くは明治時代の自由民権運動の際、「各地の演説会では、ヤジや投石が行われ」(高知県宿毛市史)との記録がある。
 とはいえ、政治コミュニケーション論が専門の逢坂巌・駒沢大准教授は「演説を聞きたい人の権利はどうなるのか」と指摘する。「話が聞き取れなくなるほどの集団的なヤジやコールは、演説を静穏に聞く権利をふみにじる」と批判。逢坂さんは秋葉原で首相の演説を聞こうと最前列に陣取っていたが、首相に抗議する人たちが来て、その場からはじき出されたという。

「対応 政治家判断の材料に」

 声を上げる側はどう思うのか。さいたま市の武内暁さん(69)は「有権者の意思を表すのがどうして演説の妨害なんですか?」。秋葉原での首相の演説に友人と駆けつけた。最近の国会答弁を見て、議論が成り立っていないと感じた。「ならば、直接民主主義の手法で、主権者が声で権利を行使する場所があっていい。演説を聞いて欲しいなら『聞いてくれ』と言えばいい。それが対話だ」
 秋葉原で首相に「こんな人たち」と指されたC.R.A.C.(対レイシスト行動集団)の野間易通さん(51)も「そもそも街頭は異論が混じり合う場所。どう対応するかも含めて政治であり、政治家を判断する材料になるはずだ」という。
 さらに野間さんは、「市民が圧倒的な力を持つ権力者に向かって肉声で叫んでいるのに、『静かに聞くべきだ』なんて学校的道徳を持ち出してなぜ断罪できるのか」とも提起する。街頭での政治活動を取材してきたフリーライターの岩本太郎さんは「秋葉原のような『事件』を繰り返しながら、なんとなく答えが定まっていくのが社会というもので、答えも一つではない。演説の聞き方に善悪の線引きができると考えること自体、怖いことだと思う」と話す。 (田玉恵美)


 この記事の問題点は2つある。
 1つは、聴衆が散発的に発する単なるヤジと、組織的な「帰れ」「やめろ」コールや、組織的でなくとも大声でしゃべり続ける行為は違うということ。
 聴衆が演説を聴いていて、ヤジを飛ばしたくなることはあるだろう。それは演説に批判的なものだけでなく、肯定的なものもあるだろう。また、演説の内容などについて周りの人間としゃべりたくなることもあるだろう。そんなものまで否定する必要はない。演説の最中は、映画を見たり講演を聞いたりするときのように、一言もしゃべらず、シーンと静まりかえって拝聴しなければならないなんて、そんな主張は誰もしていない。少々のヤジは、演説それ自体を妨げるものではないからだ。
 だが、組織的な「帰れ」「やめろ」コールや、組織的でなくとも、前回の当ブログの記事で私が引用した、演説中に

《聴衆の前方にいた女性が「憲法9条が平和を守ってきた。どうして変えるのか」などと叫んだ。それでも、首相が演説を続けたところ女性は大声で訴えつづけ》

るような行為は、演説それ自体の妨害だろう。
 今回の朝日の記事は、その点をごっちゃにしている。

 なるほど自由民権運動においてヤジや投石はあったろう。投石にまで及べばそれはもう妨害だろう。自由民権運動はいわゆる壮士に支えられていて、暴力的な部分も多々あった。決してお行儀の良いものではなかった。
 だからといって、こんにちの世の中で、同様の振る舞いをしても許されるのだろうか。

 さいたま市の武内暁さんが
「有権者の意思を表すのがどうして演説の妨害なんですか?」
と問うているのは、意味がわからない。
 有権者の意思表示によって演説の遂行が妨げられるのなら、それは当然演説の妨害だろう。
 声を上げるのが「直接民主主義の手法」だというのも、意味がわからない。
 直接民主主義とは、古代ギリシャのポリスのように、市民が直接政治に参加するというものだ。こんにちでも、憲法改正の際の国民投票や、地方自治における住民投票は、直接民主主義の手法だと言えるが、街頭で首相に対して声を上げることは直接民主主義とは何の関係もないし、そんな「対話」をする「権利」など、憲法のどこにも書かれていない。

 余談だが、「声を上げる側」のもう1人の野間易通さんについては、「C.R.A.C.(対レイシスト行動集団)の」と所属団体を明記しているのに、何故、この武内暁さんについては、何の説明もつけずに、自然発生的に集まった市民の1人であるかのように書くのだろう。
 氏名で検索しただけで、「「九条俳句」違憲国賠訴訟を市民の手で!実行委員会(通称:「九条俳句」市民応援団)」なる団体の代表であるとすぐわかるのだが。

 問題点のもう1つは、選挙のための演説と、単なる政治家の演説をごっちゃにしていることである。
 朝日の記事が挙げている、1960年の浅沼委員長刺殺の時の演説会は、選挙演説ではない。
 武内暁さんも野間易通さんも、秋葉原の安倍首相の演説が選挙演説であったことに触れていない。

 前回も書いたが、選挙は民主制の根幹であり、その自由は最大限に尊重されなければならない。
 選挙演説でない、単なる街頭演説を妨害したとしても、刑法の威力業務妨害罪でやはり処罰の対象になるだろう。だが、その刑罰は、「三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」となっており、先に挙げた選挙の自由妨害罪の「四年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金」の方がより重い。
 それだけ、わが国において、選挙における自由は重んじられているということである。
 今回の朝日の記事には、その視点が見当たらない。
 「直接民主主義の手法」を当然視する者が、間接民主主義の制度である選挙を軽視するのは別に不思議ではない。しかし、朝日新聞がそんなことでいいのだろうか。

 この朝日の記事は、「演説中のヤジ、選挙妨害?」とクエスチョンマークを付け、妨害に当たるとする側と当たらないとする側の両論併記のかたちをとっているが、「公選法基準なし」「対応 政治家判断の材料に」という見出しといい、それぞれの人数及び記事中の割合といい、記事の重心は明らかに、妨害に当たらないとする側に置かれている。
 朝日がこのような記事を載せていたことを、私はよく覚えておくことにしよう。
 そして、仮に、野党候補の選挙演説が妨害されたり、あるいは「反差別」や反原発、反米軍基地などを訴える示威行動が妨害されたりしたときに、朝日がそれをどのように評するか、注目することにしよう。