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日本共産党は1951年には統一していた(4)小山弘健『戦後日本共産党史』の記述

2023-03-20 07:24:04 | 日本共産党
 前回紹介した『日本労働年鑑 第25集 1953年版』は、1951年7月5日に発表された臨時中央指導部議長椎野悦朗の自己批判と、8月21日に発表された臨時中央指導部の「党の理論的武装のために」によって、分派問題は「ほぼ解決した」としている。
 しかし、実際には、その間にコミンフォルムの所感派支持の表明があり、これによって国際派は総崩れとなった。

 椎野自己批判に対して、国際派の当時の全国組織である全国統一会議は一枚岩ではなかった。春日庄次郎、亀山幸三や関西地方統一委員会は、自己批判を受け入れて党指導部(所感派)に統一を申し入れる一方、宮本顕治らは、椎野自己批判はごまかしであるとして、1950年6月の臨時中央指導部設置以前の状態に戻すべしとの要求を続けようとした。
 小山弘健(1912-1985)は、戦後の党史を扱った数少ない本の一つだった『戦後日本共産党史』(芳賀書店、1966)でこう書いている。

ところが、事態は突如一変した。八月〔中略〕一四日に、決定的な報道が「モスクワ放送」としてはいってきたのである。その内容は、八月一二日のコミンフォルム機関紙『恒久平和と人民民主主義のために』が、二月の四全協における徳田派の一方的な「分派主義者にたいする闘争にかんする決議」をはっきりと支持し、分派活動は日米反動を利するだけだからあくまでこの決議をまもりぬけとアピールしているという、おどろくべきものだった。
 このコミンフォルムの判決は、反対派の全グループにとって青天のへきれきであり、致命的一げきだった。これよりまえ、中央委員少数派は、徳田・野坂ら主流派の指導分子が、〔中略〕日本を脱出したことを知っていた。徳田らは北京その他の国際友党勢力に援助と協力を依頼し、同時に党内闘争にかんして自派に有利な工作をおこない、国際的支持をえようとはかるものとおもわれたから、これとの対抗上、宮本・春日・袴田・蔵原・亀山らが話し合った末、自分らの立場を訴えるため、一九五〇年の春にまず袴田を中国に先発させたのだった。それでいま、コミンフォルムの機関紙がはっきりと主流派支持の声明を出したことは、党内闘争の双方の代表の意見をきいたうえで、北京よりむしろモスクワ(スターリン)の線がこれに判決を下したものと想像されたわけである。とにかく、これによって、もはや議論の余地はなくなった。八月一六日、関西地方統一委員会は、無条件降伏による党統一の完了の決議をおこなった(『コミンフォルム論評にかんする決議』)。一八日には、関東地方統一会議指導部が主流指導下の各機関への折衝開始と全組織の解消を決定した(『党統一にかんするコミンフォルム論評とわれわれの態度』)。反対派の屈服による分派闘争の終結は、時期の問題となった。
 他方、コミンフォルム判決で勝利を確認された主流派は、八月一九-二一日の三日間にわたり、東京都内でひみつに第二〇回中央委員会をひらいた。第一九中総いらい一年四ヵ月ぶりの、しかも四全協とおなじく完全に徳田派だけで一方的にもった規約無視の中央委員会だった。〔中略〕この会議では、「党の統一にかんする決議」など五つの決議が採択され、四全協で採択された改正「党規約草案」も承認された。党統一にかんする決議は、徳田主流派が絶対に正しかったという前提にたち、反対派にたいして復帰の団体交渉とか集団的復党の方式を一さい拒否、てってい的な自己批判と分派にたいする闘争をちかうことを条件とする「無条件屈服」のみちだけをみとめた。〔中略〕
 重大なのは、この会議が、〔中略〕突然「日本共産党の当面の要求-新しい綱領(草案)」なるものを提出し、これを全党の党議にふすると決定したことだった。〔中略〕
 かくて一年余にわたる党史上空前の分派抗争は、組織的には全反対派の主流派への無条件屈服というかたちでの復帰、思想的には新綱領のもとへの全党の理論的統一というかたちでの収束によって、はっきりとかたがつけられた。〔中略〕


 さらに主流派は、8月23日付で、海外にいた袴田の自己批判を公表した。

 こうして、八月下旬から九、一〇月へかけて、反対派の各グループはなだれをうって解体していった。もっとも強硬に徳田派の粉砕をさけんでいた国際主義者団は、もっともはやく復帰の方針をさだめ〔中略〕九月には、「団結派」〔引用者註:中西功ら〕が解散大会をひらき、〔中略〕また八月には、春日庄次郎が〔中略〕「私の自己批判-本当に党と革命に忠実であるために」〔中略〕を書いた。一〇月、統一会議の指導部〔引用者註:宮本ら〕は「党の団結のために」を声明、そこで自分らの主観的意図にもかかわらず「日米反動に利する結果となった」ことをみとめ、げん重な自己批判とともに「ここにわれわれの組織を解散するものである」と宣言した。〔中略〕
 こうして、春日派・宮本派、関西や中国やその他の統一会議系地方組織、国際主義者団・団結派・神山グループなど、いずれも組織の解散をおこない、個々に自己批判のうえで復帰を申しいれるという方法をとった。すべてがみずからを「分派」とみとめ、自分ら分派のあやまりをみとめ、その完全な敗北を承認したのである。中央指導部がわは、かれらにたいして、復帰条件として、新綱領と四全協規約の承認・分派としておかしたあやまちの告白と謝罪、克服と清算を、容しゃなく要求した。ただ反対派のなかでも、まだ一部の分子(新日本文学会、その他)は中央への屈服をがえんじなかった。だがかれらの反対派としての力は、武井昭夫・安東仁兵衛らの全学連グループなどのほかは、その後ほとんど実さいに発揮できなかった。この武井らの抵抗も、翌五二年三月の全学連第一回拡大中央委までしかつづかなかった。
〔中略〕
 コミンフォルム=スターリンの誤りにもかかわらず、日本共産党を圧倒的に支配するスターリン権威主義の力は、反主流派を無条件屈服に追いやった。もっとも強硬だった野田派から、宮本・袴田・春日・神山・亀山・中西らのすべてが、国際権威の威力に無条件に支配されて、コミンフォルム判決に一言の反対も異存もなく、一方的に自分らのあやまりを認め、規約違反の歴然たる主流に復帰をねがうというさんさんたる状態となったのである。このようなまちがった国際的判決と、それのまちがったうけいれからなされた「統一」が、順調に完了するはずがなかった。その後主流派の一方的独裁と反対派の屈服による無力化が一般化していき、ついには主流派指導下に全党あげての極左冒険主義への突入となるのである。(以上、p.122-126)


 このあと、所感派が開いた五全協において、51年綱領が採択され、武装闘争が実行に移されるという流れになる。
 したがって、国際派をはじめとする反主流派は、武装闘争を積極的に推し進めた責任からは逃れることはできるとしても、その当時の党に加わっていた責任から逃れることはできない。

(続く)