今までは、日本の鉄道が世界に類をみない正確なのは、鉄道の引かれる前、つまり江戸時代からその環境が整っていたことを述べました。
でも、それだけでは、このように正確に運行する条件では、ありません。
鉄道を飛躍的に正確にした人物が、即ちキーマンがいた事も忘れてはなりません。
明治39年~40年の鉄道国有化に伴って、この時期にそれと思しき人物が現れています。
その人は、結城弘毅で、明治41年、国有化の下で長野機関庫主任となり、当時鉄道省詰めの新聞記者として活躍した青木槐三が「鉄道を育てたひとびと」の中で結城氏を「鉄道の神様」と述べています。
当時は、列車も相当遅れており、それが当然視されていました。
正確さを期すべく機関手と一緒に研究し、機関手もこの青年技師の理想にもろ手を挙げて賛同し、この運動を日本中に広げようと誓いました。
それは、沿線の風物のうち、夜でも目印になる物体を選び、そこを通る時、時計とにらめっこして目印を通過する時刻とあわせ、正確さを期し、石炭のくべ方、炊き方、蒸気の上げ方を研究しました。
その甲斐あって正確運転が実現し、全国の機関庫も同調して、正確運転をすることに成功しました。
結城氏の創意は、これだけでなく、お召し列車の運行にも利用され、昭和4年に日本中の列車の運行の改革をまかされ、本省の運転課長となり、昭和5年には、超特急「つばめ」をつくりました。
当時としては、画期的なもので東京~神戸間を2時間40分短縮し「国鉄運転技術の一つの山」とも言うべきものでした。
その後、満鉄の運転課長の時には、スピード列車「あじあ」号を実現させました。
勿論、結城氏一人の力だけではありませんが、鉄道を正確に運行させる契機になったことは間違いありません。
でも、それだけでは、このように正確に運行する条件では、ありません。
鉄道を飛躍的に正確にした人物が、即ちキーマンがいた事も忘れてはなりません。
明治39年~40年の鉄道国有化に伴って、この時期にそれと思しき人物が現れています。
その人は、結城弘毅で、明治41年、国有化の下で長野機関庫主任となり、当時鉄道省詰めの新聞記者として活躍した青木槐三が「鉄道を育てたひとびと」の中で結城氏を「鉄道の神様」と述べています。
当時は、列車も相当遅れており、それが当然視されていました。
正確さを期すべく機関手と一緒に研究し、機関手もこの青年技師の理想にもろ手を挙げて賛同し、この運動を日本中に広げようと誓いました。
それは、沿線の風物のうち、夜でも目印になる物体を選び、そこを通る時、時計とにらめっこして目印を通過する時刻とあわせ、正確さを期し、石炭のくべ方、炊き方、蒸気の上げ方を研究しました。
その甲斐あって正確運転が実現し、全国の機関庫も同調して、正確運転をすることに成功しました。
結城氏の創意は、これだけでなく、お召し列車の運行にも利用され、昭和4年に日本中の列車の運行の改革をまかされ、本省の運転課長となり、昭和5年には、超特急「つばめ」をつくりました。
当時としては、画期的なもので東京~神戸間を2時間40分短縮し「国鉄運転技術の一つの山」とも言うべきものでした。
その後、満鉄の運転課長の時には、スピード列車「あじあ」号を実現させました。
勿論、結城氏一人の力だけではありませんが、鉄道を正確に運行させる契機になったことは間違いありません。