旧愚だくさんブログ

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イーハトーブの学び舎

2013年10月21日 | カメ見聞録・廃墟・遺構編

驚いた。
此処で宮沢賢治は生き続けている。


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↑旧盛岡高等農林学校本館

日本で最初の高等農林学校として明治35年に創立された盛岡高等農林学校。
宮沢賢治は大正4~9年の間、本科生および研究生として在籍した。

この建物は盛岡高等農林学校の本館として大正元年12月に建てられた。
一階は校長室、事務室、会議室。
二階は大講堂として学校諸行事に使われていた。
大正初期の盛岡高等農林学校は、この建物を中心として沢山の講義棟や研究棟などが立ち並んでおり、当時を示す絵図を見ると南都六宗が盛んだった頃の東大寺や法隆寺の伽藍配置さながら。
教育や鍛錬の場とはかくあるものか、と思ったりして。

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↑秋の陽射しに映える建物

その後、老朽化に伴い2度の大修復が行われ、良好な保存状態で現在に至る。
国の重要文化財。
近代の建造物は登録有形文化財が多いのに重文とは!

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↑門番所

盛岡高等農林学校正門が明治36年に建てられ、その隣に門番所が建てられた。
正門、門番所共に明治期の貴重な建物で国の重文指定。

正面は八角だけど後ろに長く伸びており、門番さんの宿泊スペースになっている。
それにしても、何て可愛らしい建物!

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↑宮沢賢治の像

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↑本館の前に広がる北水の池

亀が居そうなのだが・・・
ガン見で探したのだが・・・
居なかった(涙)

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↑本館を取り囲む松林では、ナマコみたいな松ぼっくりが落ちていた。


宮沢賢治は優秀な学生でありながらも、生真面目と言うよりは気の向くままに動き回りつつ何かを得ていた・・・そんな感じを受けた。
理系の学生らしくて微笑ましい。
しかし、地質土壌学の権威・関教授との出会いから岩手県の酸性土壌改良や冷害対策のための肥料設計の研究に没頭、古里の農業環境を整えるべく2000枚の設計書を書き上げ、その無理がたたってか肺病に倒れ、夢半ばの37歳で逝去。

だけれど、此処の学生たちは賢治がやり残したことを確実に受け継ぎ、現在も研究が続けられている。
このことに深く感動した。
「君は学んでから食すか。それとも食してから学ぶか」
と、師は学生たちに問い、
「作物は豊かな土壌でこそ育つ」
と教えるのだと、館内を案内してくださった方が仰った。
それはまさに、明治35年に国によって創立された当初からの理念であり、その下で学んだ宮沢賢治の想いであったはず。

この言葉を聴いた瞬間
「今でも賢治は此処に生きている」
と確信した。