てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その2】

2015年02月12日 20時58分37秒 | 参加者感想
なぜ哲学カフェに集うのか?
今回は、哲カフェの「キムタク」こと、「Hえもん」さんからのご回答です。
気軽にお願いしたのにこんなに重厚なレポートにすぐさままとめて下さるなんて、有り難すぎます!


「なぜ、てつがくカフェに集うのか?」

集うきっかけは、当時同僚だった主催者に誘われたからである(笑)。
とはいえ、一般的に同僚に誘われても気が進まないものもあるし、一度は義理で参加しても二回目以降に足が遠のくイベントだってあるだろう。

常連(自分でそう呼んでいるだけだが…)になるほど足繁くてつがくカフェ@ふくしまに参加しているのは純粋に「楽しい」からだと思う。
ただ、「楽しい」にはいくつかの理由がある。

「楽しい」の1つ目の理由として、自分の知的好奇心が満たされることが当然含まれる。
毎回テーマに沿って対話が進んでいくが、「今回は自分に興味があるテーマである」とか「今回のテーマは興味がない」ということはあまりない。
テーマ設定がうまくいっていることが理由かもしれない(おそらく世話人はかなりの確率でテーマ設定を失敗したと考えるだろうが…)。
自分の中で答えがはっきり見えているものであれば、参加したいと思わないかもしれないが、確信をもって「○○○は×××だ」と言えるものはないから、その答えを見つけたくなる。
てつがくカフェに参加して、他者の考えに触れるたびに自分が考えていたことは次々に変容する。
最終的に答えが出ないものも多いが、それでも参加した前と後では世界が違って見える気がする。
余談ながら、「人はなぜ学ぶのか?」という問いに対して、哲学者の國分功一郎さんは「環世界」という概念を用いて、学ぶことによって世界の見え方、感じ方が変わると言ったことがとても強く自分の心に残っている。
てつがくカフェに参加して、世界の新しい見え方や感じ方を学ぶことは純粋に楽しいと思える。
しかし、新しい見え方や感じ方を手に入れるたびに、今の世の中に対する批判や問題点がどんどん見えるようになってきた。
3.11が起こるまで、社会を批判的に見る人たちに対して、「実際の世の中そうかもしれないけど、自分がそんなに腹を立てて怒らなくてもいいんじゃないか?」という風に思っていた。
わりと世の中を冷ややかに見ていたと思う。
しかし、3.11以降自分の考え方はずいぶん変わった。
3.11以後、世の中が「平穏な日常」に戻ろうと動きを見るたびに「それじゃダメなんじゃないか」という気持ちになった。
そういう気持ちを共有でいる人たちは身の回りでごく少数だった(いるだけマシだったのかもしれないが…)。
震災後、自分が考えていることを他人に伝えることができず、同調圧力に負けていく過程を体験してしまった。
その時感じたのは「戦争ってこうやって誰も責任を取らずに突き進んでいくんだろうな」という感情だった。
普段の歴史の授業で「戦争は愚かしいことだし、絶対にやってはいけない」と思って生徒に偉そうなことを語っていても、いざ戦争が起こったらそれでも自分は今までと同じことが言えるだろうか?という気持ちになった。
てつがくカフェが始まった時期と震災はほぼ同時期だったが、今まで社会のことにあまり関心をもたずに生活してきたが、もっと考えて行動しなきゃいけないんじゃないかと思った。
そんな時、てつがくカフェに参加することはとても楽しいことだった。

2つ目の楽しいは知的好奇心を得る楽しさとは別の対話する楽しさだと思う。
普段私は高校で地理歴史・公民の授業をしている。
たえず世の中のことに興味関心を持ってアンテナを高く情報収集せねばという半ば強迫観念のようなものを持っている。
自分の読みたい本を読んだりして情報収集しているが、この本も読まねばとかという焦りにも似た気持ちも湧いてくる。
自分が敬愛する世界史の先生はそういう強迫観念に負けず、膨大な本を読み漁り、たえず新しい知識を入れる生活を数十年続続けて『世界史との対話』というもの大著を執筆した。
そして、その本のベースになっているのは高校での授業実践と市民講座での講義だったという。
自分に同じことができるとは思えないが、そういう人になりたいという欲はある。
私の仕事は高校生と向き合い、授業をすることである。
自分が吸収した知識を自分なりに噛み砕いて、生徒に教えたり、発問を通じて考えさせたり考えたりする。
普通の人よりは社会科学の知識は持っていると思うが、てつがくカフェでは知識の多寡ではなく論拠の正しさが求められる。
てつがくカフェには高校教員だけではなく老若男女さまざまな方々が参加している。
普通に生活していれば出会うことのない方たちを対話をすることはいろいろな気づきがあったり、考えの多様性をもたらしてくれる。
普段は高校生という同質性の高い集団と一緒にいるため、自分の考えが絶対視されがちになる。
対話を通じて得られる考えの多様性は自分の考えを改めて考え直させるきっかけを与えてくれる。
そういう考え方もあるということを書物ではなく、目の前にいる人から語られることはとても大切だと思うし、それを自分で受け止めることも大切だと思う。
そして、それもまた楽しいことなのである。

3つ目の楽しいはてつがくカフェに参加することに連帯感を感じることだ。
人の話を最後まで聞くとか、対話になるように努力をするというルールがあり、参加者がそれを守ることが居心地のいい空間づくりにつながっている。
自分のどんな意見でも受け入れてくれる場所とか、疑問に思っていることさえ肯定してくれる場所は実社会ではあまりない。
参加するメンバーは毎回変わるが、そのルールが徹底していることがとても良い。
実際に対話ではなく議論を求める人はこの場は居心地が悪いから参加しなくなるのだろう。
また、二次会と称する飲み会も楽しい。
実は私は二次会の方が好きだ(笑)。
理由は酒が入るから…ではなく、その人の属性というかパーソナリティに興味があるからだ。
てつがくカフェは参加者に名前を名乗る必要もないし、名乗らずとも対話を進めることができる。
二次会では一応自己紹介するが、話が盛り上がっていくにはある程度自分の属性に関わっていくことが多い。
自分が興味を持てない人との話は苦痛だが、てつがくカフェに集う人と会話をしていて、興味がもてないと感じた事はほとんどない。
理由はわからない。
前回のてつがくカフェで他者理解がテーマだったが、共通の土台で分かり合える部分があるという話があったが、そういうことなのかもしれない。
そして、月一度のペースで参加者に会うと、いつの間にかざっくばらんに話せる参加者も増え、昔からの友達に再会するような気持ちになる。
知り合いが増えると、ますます居心地のいい空間になる。
ただ、この点についてはそういうなあなあの雰囲気ができると、新しく参加する方に悪い印象を与えるかもしれないので、常連としては気を付けなければいけない部分だと自覚している。
それでも、てつがくカフェに参加している人たちはみんな仲間だと思っている。
 
だんだん取り留めのない話となってしまったが、以上が今のところ思いつく限りのてつがくカフェに参加する理由である。