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てつがくカフェ@ふくしま

語り合いたい時がある 語り合える場所がある
対話と珈琲から始まる思考の場

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その7】

2015年02月14日 22時35分06秒 | 参加者感想
哲カフェにこんな力があるなんて!
これも参加者の皆さんの力に他なりません!


わたしにとって、てつがくカフェとは自分のことを知る機会を与えてくれる大切な場所です。

最初に参加したのは、シネマdeてつがくカフェが開催された映画館でした。
冬のハンナアーレントは仕事の都合で観れず、その次の春に行われた「ある精肉店のはなし」を観て、そのあとの参加者の方たちのやりとりを聴き衝撃を受けたのです。
わたしよりずっと若い人も年上の人も、真剣に自分の考えをみんなにわかる言葉で力強く話していました。

わたしは、若いころは勉強が好きなことを恥ずかしいとかカッコ悪いと思い、人に話すなんてもってのほかで、自分のいる世界や未来について真剣に考えたり、世界観や思想などの考えを確立する努力を全くしなかったのです。
それをこのときはとても後悔しました。

一人で映画を観たことも実はその日が初めてだったのですが、終わったあとに感想などを知らない人たちと共有できるということは他に無いことなので、とても魅力的に感じました。

そのあと「人生をやり直すとは」というテーマで、通常の形式のてつがくカフェがありました。
その時はテーマに惹かれて参加しましたが、自分で想像していた以上に、みなさんが活発に意見を出し合っていたので驚きました。

わたしの友人はみんな明るくて、楽しい話にかわいらしく笑い合う人ばかりで、わたしはそれが居心地がいいとずっと思って生きてきたのですが、自分が過ごしてきた時間とは全くかけはなれた空間がそこにありました。

正直言って最初はなじめないだろうなと思いました。
わたしは難しいことはしゃべれないし、学歴もないので頭も良くないし、結局のところここは、人生がやり直せるかやり直せないか教えてくれるわけじゃないみたいだし…と少し暗い気分になったのです。

いま思えば、セミナーではないので答えや指針のようなものを提示されるわけではないところがおもしろいのですが、答えが欲しかったころだったので少しがっかりしました。

でも、てつがくカフェの二時間が終わって、そのまま飲み会に突入したのでなんとなく帰らず居座り続けていたころに、世話人の純さんが初参加ということでいろいろとわたしの話を引き出してくれたので
離婚しちゃったから行くところないので来てみたんです
と話したわたしに対してガハハーと豪快に笑って
「てつカフェへようこそ!!」
と楽しそうに言ったのです。
いまになってみれば、いい気分でニコニコと酔っていただけだろうとわかるのですが、その時はびっくりしたし、とても感動しました。
世間では離婚は珍しくないことでも、わたしはそれが2回目だったので、さすがに人より多いし落ち込んでいたのですが、そう伝えても同情やあわれみや、または好奇の目で見られなかったことが初めてだったからです。

きっとここの参加者の人たちが持っている、他人を判定するフィルターみたいなものが普通じゃないんだなと感じました。
というか、そもそも他人を判定するような目線など持っていない人たちだけが集まっているのかもしれません。
それはすごく貴重なことだと思います。

会が終わるころには、この人たちのところに一緒にいて、わたしが持っている「普通」という感覚から抜けたいなと思うようになりました。

今では参加することに何のためらいもなく、むしろバカなりに話題にきちんと参加できるように数日前からいくつも考えをまとめていくようにしているのですが、当日になると本当に予想できない意見がどんどん出てきて、わたしが考えていたこととは違う方向に進んでいくので事前準備はたいていムダに終わります。
それでも、ひとつひとつが今の自分の毎日にとても心強い光を当ててくれている気がします。

てつカフェに参加するようになって一番変わったのは職業です。
デパートで洋服を売る仕事しかしたことが無かったのですが、資格を取得したので3月から介護職員として福祉施設で働くことにしました。
これは完全にてつカフェの空間や、そこで出会った方たちの影響だと思います。
まだ参加歴は浅いのですが、それでも毎月、この場になじめるように誠実に毎日を消化しようと過ごしてきました。
自分はどう思うか、どう考えるか、脳みそをフル稼動して自分について掘り下げて考えていけば、たどりついた答えが何であろうと必ずわたしを肯定してくれる人たちがいる、それは何にもまさる宝物だと思います。
そのおかげでわたしは自分が本当に求めている新しい道を見つけることができたと思っています。

常連と自ら言うにはおこがましい身ですが、これからも対話を通じていろいろな方と交流を深め、わたしなりの人生観をきちんと構築していけたらいいなと思います。

どうかてつがくカフェがいつまでもこの福島に存在しつづけ、わたしのようにさまよっている人間を導く光でありますように。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その6】

2015年02月14日 13時43分52秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
続々と参加された皆様より、ご回答をお送りいただております。
哲学カフェの意義とは?
皆様の文章を読みながら、日長考え込んでいるところです!


「『てつがくカフェ@ふくしま』にせっせと通う理由」

「てつがくカフェ」という集いが福島市で開催されていることは、新聞か何かで時々目にしていた。
哲学的なテーマについて珈琲片手に話し合うという試みを、面白そうだと感じていたものの、実際に参加するには今ひとつタイミングが合わなかった。
しかし2013年の冬、「てつがくカフェ@ふくしま」が『茶色の朝』を題材に開催すると、やはり何かで目にしたとき、今回はタイミングを言い訳にせず参加した方がいいのではないか、そう思った。

高校の教員をしている僕は、全体主義への警鐘を鳴らすこの本を教材として何度か取り上げたことがあった。
「他人の思考をなぞるのではなく、自分の頭で物事を判断すること」、「社会に違和感を抱いたとき、日常の多忙を言い訳にせず違和感を表明すること」、「自由とは無条件で与えられるものではないこと」。
この本がフランスで出版されたときの社会状況と、日本の社会状況にどこか重なるところがあるように感じていた。
でも、その理由もわからなければ、何をすればいいのかもわからない。
閉塞感と無力感を持っていた気がする。
何かできることはないのか、そう考えていた頃だった。
『茶色の朝』について話し合うらしい。
その本に興味のある人がいるかもしれないし、自分にも何か言えることがあるかもしれない、そう思って出かけた。

「てつがくカフェ」は楽しい。
「てつがく」とひらがなになっているだけあって敷居が低く、専門知識や哲学的知識の多寡を問うわけではないらしい。
よかった。そんな知識はないし。
会場で、木戸銭代わりに幾ばくかの小銭で珈琲代を払う。
幾ばくかの小銭というのもまた、敷居が低くていい。
そして、木戸銭と違って興行を見るのではなく、自分がその一部になる。

約2時間、テーマについて考え、何度かは発言をしてみる。
あらかじめ考えてきたことであったり、その場の流れで思いついたことであったり。
でも圧倒的に、他の参加者の方の発言を聞いている時間が長い。
自分と他の方とでは考え方がこんなにも違うものかと毎回驚き、それが当たり前なのだと今更ながら気付く。
一つのテーマに対して、実に多くの切り口があり、多くの意見がある。
決して共感できないとか、理解できないとかいうことはないのだけれど、それにしてもこの違いはどこからくるのだろうと話を聞きながらつい考えてしまう。
「育った環境が違うから」と山崎まさよしが歌う。
「そうか、おまえは、そこからやって来たのか。」と自分の立場のふるさとを見つけることもある。

結論がないことも気に入っている。
カフェが終わると、会場にあるホワイトボードは(それが電子黒板であったり、時にホワイトボードがなかったりもするが)、僕の意見も含め、その日に出された意見で埋め尽くされる。
でも、結論が出されるわけではない。
そもそも僕自身が、カフェが始まる前よりもずっと混乱している。
自分の意見が揺れ、自分の論拠を疑うようになっている。
心の中で反発を覚えていた他の方の意見に、いつの間にか共感していたりもする。
不思議だ。
でも、その混乱の中、「(どこかが)開いた」、「(何かが)深まった」、そういう感じが間違いなくある。
だから、混乱は不快ではない。

僕は「対話」を、「自分の意見を口にし、意見交換をしながら、自分の考えを確かなものとして深めていく過程」だと考えていた。
でも「てつがくカフェ」の「対話」から思ったことは、他の方の話を聞くことの方がずっと自分の考えを深めるきっかけとなる場合があるということ。
いきおい、自分のささやかな発言も誰かの深まりのきっかけになることを願う。
カフェが終わった後に拍手が自然と起こるのは、もしかして、そういうお互いがお互いを深め合っていくことへの感謝とか、そういうものだったりもするのだろうか。
ファシリテーターが「解散後もずっと考え続けていきましょう。」と言う。
実際にその後も考え続けることが多い。
運転中に思いついた考えを、慌ててボイスメモに録音することもある。
そうすると、一つのテーマに対して、かなり長い時間考え続けていることにもなる。
それなのに、結論は出ないし正答もない。
でも、それでかまわない。
ある物事に対して、性急に結論を出さず、じっくりと時間をかけて考える機会がある。
それは幸せなことかもしれない。

閉塞感や無力感は消えていないし、未だに震災について語ることは難しい。
でも、「どこかが開いた」、「何かが深まった」その感じを求めて、またせっせと「てつがくカフェ@ふくしま」に通う準備をしている。
「ずいぶんはまってるのね。」と、ある女の子に言われた。
そうなのかもしれない。

なぜ、哲学カフェに集うのか?【その5】

2015年02月14日 12時52分19秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
なんだか、だんだん皆さん、文章が哲学的文学的になってきています。
それだけ哲学カフェへの思いが強いということでしょうか?
圧倒されそうです。


3.11の少し前に、『カデナ』という小説を読んだ。
血や土地に基づかない共同体、それどころか政治的スタンスも趣味も異なり利害さえ対立する者たちの共同体は可能だろうか?
保守的論客が「美しき日本の共同体」を賛美したり、サンデル教授が「共通善」を再評価するのとはちがう形で「共同体」を考えたいと思い、友人たちと議論をしていたその時期に3.11が起こった。
その時、人々は「うるわしき共同体」を称揚したが、僕には実感がなかった。

3.11後すぐに、親しい友人が「てつカフェ」を始めた。
それ以前から「てつカフェ」を準備していることも知っており、当初は僕はそれに参加するつもりだった。
しかし、1年もの間、「てつカフェ」に参加することができなかった。
その理由はよくわからない。
震災について、あるいは原発事故について、他人の前で語ることができそうになかった。
これらの出来事は僕を根っこの部分から揺さぶり続けていた。

やがて、僕は僕なりに語らなければならないと思うようになった。
その思いは焦燥に近いものだった。
これまで何のために無数の文学や哲学書を読んできたのか、もしこの時にこの出来事をめぐる言葉を紡ぎ出せないとしたら。
そんな思いにとらわれていた。

福島を去ろうと考えたことは二度や三度ではない。
僕の好きな、美しいふる里は損なわれてしまった。
山や川を見ても、それ以前のようには見ることができなくなってしまった。
しかし、結局僕は福島にとどまることに決めた。

3.11の時に、僕の住んでいる場所で「地域の共同体」は全く機能しなかった。
そのことでかえって、この土を共に踏みしめ、同じ空気を吸い水を飲みながら生きている人々は何らかの形で結びつく必要があると考えるようになった。
濃い結びつきでなくともいい、いや濃い結びつきでないほうがいい。

「てつカフェ」の結びつきはとても緩くていい。
参加しなかった時期にも、友人は僕を誘わなかった。
今でも、「てつカフェ」をここまで継続している友人に敬意をはらいながらも、気ままに参加して、好きなことを好きなように言っている。
議論ではないので、相手を説得したり論破する必要はない。
言いっ放しに近い意見もある。時には、「ちょっと待てよ」と思うことがある。
しかし一方で、議論という形式によっていろいろな大切なコトバが踏みにじられてきたのではないか、そんなことも思う。
「てつカフェ」という、どんな意見にも耳を傾けてみるというスタイルが僕に気づかせてくれたことだ。

蛍が明滅するみたいに、弱くても、そこここに光っては消える共同体が僕にとっての「てつカフェ」である。

なぜ、哲学カフェに集うのか【その4】

2015年02月14日 06時43分06秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
その4は文学的に書いてくださった常連さんのご回答です。
3.11。
裸の本当の自分。
寛容性。
それだけで哲カフェのテーマになりそうなキーワード満載です。


「てつがくカフェの寛容性」

ひとは常にマントを被る。
ハリー・ポッターもびっくりの透明マント。
マントでひとは周囲に同化し、被ってしまえばだれにもみつからない。
そうやって多くの日本人は周囲に迎合して生きている。
それが、この社会で生きるためには楽だから。

他方、そのマントの下では大きなひずみが生じるひともいる。
周囲に迎合した自分と、ユニークな自分。
この両者がしのぎをけずり、結果大きなストレスを生む。
でも、日常はそれをやり過ごすことができるのだ。
当たり前のこととして。

しかし、突然の非日常が訪れた。
3.11である。
大きな不安と絶望は、透明マントを引き剥し、本当の自分をさらけ出すことをある意味で強要した。
取り繕う余裕などどこにもない。
本当の裸の自分。
これを隠して生きることがどれほどのストレスを感じることか。
この本当の裸の自分をありのままに受け入れてくれる空間が、てつがくカフェである。

この空間に服はいらない。
正解なんてない。
哲学なんてしらない。
カフェに集った雑多で多種多様な人々が、一杯のコーヒー片手に、その考えのおもむくままに対話し、独白し、傾聴し、そしてその後も考え続ける。

ありのままの自分をてつがくカフェは無条件に受け入れてくれる。
このなんと心地の良いことか。
そして、そこで自分の知らない世界を感じ、吸収することができる。
裸の自分を受け入れられる心地よさと、大学とはことなる知への入り口にたっているという刺激。
それを自然に享受することができる特別な空間がてつがくカフェにはある。