てつがくカフェ@ふくしま

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なぜ、哲学カフェに集うのか?【その5】

2015年02月14日 12時52分19秒 | 参加者感想
なぜ、哲学カフェに集うのか?
なんだか、だんだん皆さん、文章が哲学的文学的になってきています。
それだけ哲学カフェへの思いが強いということでしょうか?
圧倒されそうです。


3.11の少し前に、『カデナ』という小説を読んだ。
血や土地に基づかない共同体、それどころか政治的スタンスも趣味も異なり利害さえ対立する者たちの共同体は可能だろうか?
保守的論客が「美しき日本の共同体」を賛美したり、サンデル教授が「共通善」を再評価するのとはちがう形で「共同体」を考えたいと思い、友人たちと議論をしていたその時期に3.11が起こった。
その時、人々は「うるわしき共同体」を称揚したが、僕には実感がなかった。

3.11後すぐに、親しい友人が「てつカフェ」を始めた。
それ以前から「てつカフェ」を準備していることも知っており、当初は僕はそれに参加するつもりだった。
しかし、1年もの間、「てつカフェ」に参加することができなかった。
その理由はよくわからない。
震災について、あるいは原発事故について、他人の前で語ることができそうになかった。
これらの出来事は僕を根っこの部分から揺さぶり続けていた。

やがて、僕は僕なりに語らなければならないと思うようになった。
その思いは焦燥に近いものだった。
これまで何のために無数の文学や哲学書を読んできたのか、もしこの時にこの出来事をめぐる言葉を紡ぎ出せないとしたら。
そんな思いにとらわれていた。

福島を去ろうと考えたことは二度や三度ではない。
僕の好きな、美しいふる里は損なわれてしまった。
山や川を見ても、それ以前のようには見ることができなくなってしまった。
しかし、結局僕は福島にとどまることに決めた。

3.11の時に、僕の住んでいる場所で「地域の共同体」は全く機能しなかった。
そのことでかえって、この土を共に踏みしめ、同じ空気を吸い水を飲みながら生きている人々は何らかの形で結びつく必要があると考えるようになった。
濃い結びつきでなくともいい、いや濃い結びつきでないほうがいい。

「てつカフェ」の結びつきはとても緩くていい。
参加しなかった時期にも、友人は僕を誘わなかった。
今でも、「てつカフェ」をここまで継続している友人に敬意をはらいながらも、気ままに参加して、好きなことを好きなように言っている。
議論ではないので、相手を説得したり論破する必要はない。
言いっ放しに近い意見もある。時には、「ちょっと待てよ」と思うことがある。
しかし一方で、議論という形式によっていろいろな大切なコトバが踏みにじられてきたのではないか、そんなことも思う。
「てつカフェ」という、どんな意見にも耳を傾けてみるというスタイルが僕に気づかせてくれたことだ。

蛍が明滅するみたいに、弱くても、そこここに光っては消える共同体が僕にとっての「てつカフェ」である。

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