てつがくカフェ@ふくしま

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第6回本deてつがくカフェ報告―『愛する人に東横インをプレゼントしよう』―

2015年02月08日 08時21分49秒 | 本deてつがくカフェ記録

『愛する人に東横インをプレゼントしよう』の著者やっぱりぱんつさんと、その夫である工藤考浩さんをお招きしての第6回本deてつがくカフェが開催されました。
とにかく痛快極まる哲カフェでした。
いや、痛快なのは、やっぱんつさんと工藤さんの人柄に他ならないのですが、こんな人たちばっかりだったら、きっと平和で笑いの絶えない世界になるのになぁ、と思わずにはいられませんでした。
参加された26名の皆さんも、きっと心の中でそう思ったことでしょう。
遠くは東京や盛岡、いわき、会津、三春からわざわざお出で下さった参加者もいらっしゃいました。
ありがたいことです。
初めて会場として使用させていただいた南国カフェTUKTUKは満席状態。

まずは、この本に感動した常連さんが、わざわざレジュメを切って問題提起して下さったところから始まります。
曰く、

「他人には理解されにくいと自分では思うような趣味や好みも、もしかしたらその人の個性として、広い心で受け入れてくれる相手がいるかもしれないということがよくわかり、心強く思った。自分では欠点だと思っているような一般的ではない趣向でも、これからは自信満々に世間に公表していこうと思う。」

え!?それは、やめておいた方がいいんじゃないの!?
と誰もが思ったその瞬間、別の参加者から、むしろ他者から理解されなければされないほど、そんな他者に理解されない部分をもつ自分だからこそ、自分を誇りに思えるようになったとの経験が語られました。
「東横インをこよなく愛する」わけのわからなさを持つ工藤さんも、「それはわざと違っているのではなく、結果的に違ってしまった」が、「その違いがあることが楽しいと思える相手だから一緒になれた」と言います。
まずは「違いを楽しめる、興味を持つこと」が他者理解のキーワードとして確認されました。
いやいや、それでも「他者との違い」は理解されないのが普通だし、理解されないのは苦しいと思うのが一般的なのではないか、という疑問も投げかけられました。
これに対して、「他者を理解しなくちゃいけない」ではなくて、「他者を理解できないことを知ること」や「違っていることを理解する」ことから始めなくてはいけないとの意見が出されます。
本書127頁では、「大事なのは、どうして好きなのかを理解することではなく、好きであるという事実を理解すること」だと書かれてあります。
それにしても、「相手が好きである事実を理解する」とはどういうことなのか。
まさに、この論点をめぐって考え合うことが、この本を選んだ最大の理由でした。

それにしても、日本人はなかなかこの境地に達することができない種族だとも言われます。
この横並び気質を日本人の美徳として海外から称賛された震災での経験を語りながら、違っているものをハブこうとする日本人気質の問題は教育にあるのではないかとの意見も出されます。
これについて小野原から、「同化による理解」と「異化による理解」の違いを挙げながら、日本人的気質は前者による理解が優先されがちだとの指摘が為されました。
この「異化による理解」に関して、別の参加者からは、ある映画の中で異なる宗教文化をもつもの者同士が、あるパーティで異なる食文化を皿で分かち合いながら公平に食事を分け合う姿を観たときだったそうです。
違うものは違うのだから、それでお互いがうまくいくように折り合いをつける姿に、理解できない他者と一緒に生きるとはこういうことだと直感したそうです。

では、共に生きる相手が、もし児童ポルノや異常な性的嗜好の持ち主だったとしても、それは受け入れられるのか?
そんな他者理解の楽観性を根底から揺さぶる問いかけがなされました。
たしかに、ワタクシの知人の中には、むしろ宗教の違いから家庭生活で折り合いがつかず、けっきょく離婚してしまったというケースがありました。
実際、自分のパートナーが突然、何かの信仰団体に入信してしまったり、危険な政治信条を持ってしまったら、それを受け入れられるか自信もありません。
すると、「それは一般論で見るから苦しいと見えるだけであって、愛する人や家族など具体的な個々人と向き合えば、そんな簡単に言えないだろう」との意見が出されます。
たしかに、「理解されないことは苦しいことで対立しか生まない」と一般論や想像で語ることは、それがバイアスとなって、むしろ「他者理解」を遠ざけることになりかねません。
これについては、お互いが共有し合う「土台」がしっかりしていることが、他者の違いを受け入れることの前提となるということが指摘されました。
では、その「土台」とは何か?
これに関して、この本が提起するのは「仏教的なもの」だとの指摘がありました。
フランスでの経験を踏まえたその意見によれば、彼の国ではむしろ肌の色や人種、信条によってくっきり生活や仕事空間が選別されていることと比べると、日本はまだまだ哲カフェのように他者の異質性を考える空間があったり、受け入れる文化があると思え、それはとやかく言わずとも異質性を受け入れる禅的な仏教文化を感じたと言います。
たしかに、そうした文化が「土台」としてあるのかもしれません。
このように、今回のカフェでは、趣味や考え方の違いを超えてもお互いを結びつけるものとして取りざたされたその「土台」というキーワードをめぐって議論が展開しました。

これに関して、やっぱりぱんつさんは工藤さんに対して東横インが好きだという部分以外に、理解できない部分を感じるのか、という質問が投げかけられました。
これに対して、やっぱりぱんつさんはどんな変なことも面白いと思えるけれど、それは趣味的なものだから理解できないことを受け入れられるのかもしれないとの答えが返されました。
つまり、ここにはやはりやっぱりパンツさんと工藤さんとのあいだには、理解できない異質さを許容できるだけの「土台」があるのであり、問題はそもそも、その「土台」の違う他者と共生することは可能なのか、との問いが炙り出されました。
恋人や友人、家族はその土台を共有している関係性のうちにあると。とりあえずは言えるでしょう。
いや、それでも隣に引っ越してきた言葉も通じない中国人に対しても、意外と楽しむことができたというエピソードが工藤さんから紹介されました。
だから、「土台」が共有されずとも、それは可能ではないか。
あるいは、別の参加者から、夫がある宗教団体に入信したが、妻は入信を拒否してもなお夫婦関係は存続したというケースも紹介されます。
それでも、人には許容範囲というものがあるのではないか。
どのレベルまで行ったら他者の違いを受け入れられなくなるのか?
その問いに対してやっぱりぱんつさんは、「自分に害が及んだ時には、さすがに容認できなくなるのでは」と言います。
たとえば、自分よりも東横インを優先し始めて、自分との過ごす時間が減ってしまったりした場合には、さすがに許容できなくなるのではというのです。

すると、別の参加者から「そもそも他者は理解できないからこそ他者なのであり、せいぜい他者を容認せよとしか言えないのではないか」との意見が挙げられました。
長年のうまくいかない夫婦関係の経験から、その発言者は次第に相手を理解しようとしなくなったと言います。
けれど、それは決してネガティブな意味ではありません。
理解不可能な存在が他者であるのなら、理解しようとするのではなく、あるがままである他者の存在を許容することしかできないのではないかというわけです。
あの暴挙をくりかえすイスラム国の兵士ですら、それはもしかしたら私たちが理解できない正当性があるのかもしれません。
それを理解しないままに、この世界から即抹殺せよという権利は誰にもないことを、その意見は示しています。
では、それは他者なるこの世界の暴力的な存在をすべて許容せよ、ということになるのでしょうか。

また、同化による理解について、それは突き詰めていくとけっきょくは異化による理解と変わらないのではないか、との意見が出されます。
つまり、同質的な仲間内とはいえ、それは結局のところ、お互いが違っていることに気づかざるを得ないくなってゆくのであり、それは異化による理解に至らざるを得ないのではないか、というわけです。
その点で、やっぱりぱんつさんの選択は、はじめから異化から理解へ至ることを出発しているわけですが、それにしても、なぜその方法を東横インの模型をプレゼントする形を選択したのか。
その問いかけに対し、「お互いに気持ち良くなれるから」と彼女は答えます。
(「自分本位でも相手本位でもなく、お互い本位でやらねば意味がない。」(47頁))
もちろん、東横イン好きの工藤さんですから、それを贈られることは気持ちの良いことかもしれません。
一方、やっぱりぱんつさんにとっても模型を作る過程は楽しいものに違いないという確信の下、それが執り行われたというのです。
では、他方で工藤さんはそのプレゼントが嬉しかったのかと聴くと、一抹の引っ掛かりはなかったわけではないが、今やそれは二人を結びつけた象徴として自宅内に置かれ、それを見るたびに、その二人の関係性が構築されていった過程が想い起されるイコンとして存在していると言います。
もはや、それは東横インの模型を超えてイコン化しているというのは、とても印象に残るお話でした。

さて、場がいったん落ち着いたところで、論点は「恋愛の在り方」に移ります。
「恋は惚れたほうの負けで、惚れさせたほうが勝ちだ」という、若かりし頃から引っ掛かりお覚えていたこのテーゼについて、
「愛の勝負は、どちらが勝っても負けてもいけない。ドローという結果は、私が一番望んでいたものだった」(160頁)
という、やっぱりぱんつさんのテーゼは衝撃だったという話が挙げられました。
これに関して、恋は勝ち負けだが、愛は対等性をもって成り立つのかもしれない。
そして、その方が長く続くという意見が挙げられます。
では、対等とは何か?引き分けとは何か?
それを「自分が相手を思う気持ちと、相手が自分を思う気持ちのバランス」と表現した意見も出されました。
たしかに、このバランスが崩れると恋愛も成り立たないでしょう。
さらに拗れれば、ストーカー行為になってしまいます。
最終的にそれは相手を殺害してしまう行為に及びかねません。
それでも、惚れている間が幸せなのだから、惚れた方が勝ちなのではないか、
いや、惚れた方は自制の利かず、惚れられた方に言いなりになるのだから負けなのだ、という意見の相違も挙げられます。
でも、それって恋愛関係でなくても、友人関係にも当てはまるのではないか。
いや、それは恋愛関係が100対100ならば、友人関係は60対60という度合いの程度で表せるのではないか。
等など、恋愛をめぐって議論は尽きません。

しかし、最終段階において議論は、やはり「他者問題」に回帰していきます。
他者を尊重するとは何か?
ある参加者は、相手のことを本当に理解したいというならば、相手が生まれる前にどのような存在だったのか遡っていかなければならず、それは大変なことなのだから、理解しようと探究することはあきらめて初めて尊重しようということが必要になると言います。
この相手を理解する、尊重することをめぐっては、「相手が好きなものを自分も好きになることが理解である」と思ってきた経験を語る参加者がいました。
自分は犬が大嫌いなのだけれど、犬好きの妻の姿を見ていて自分も犬好きになれば何か世界が開けるのかもしれないと思い、一生懸命犬を好きになろうとしたがやはり無理だったというのです。
これに関して、ワタクシは工藤さんが書かれた
「理解できない部分にはあえて触れず、見て見ないふりをすること、そこから何も感じようとしないことが尊重するということだと思っていたし、そう過ごしてきた」(138頁)
という部分が印象にあり、そしてとても共感できる部分だったことを述べさせていただきました。
ただし、大事なのはその先にある「けれど彼女は違った」という続きの文章です。
この「彼女は違った」という部分をどのようにとらえればいいのか、という問いかけに対して、工藤さんは実はいまだによくわからないと答えてくれました。
そして、これから先もそのことを考え続けていくしかないのだとも言います。
実は、この部分を理解することが、今回のテーマを深める点でかなり重要な気がしています。

最後に、ある参加者から「これまでの議論を聴いていると、他者を理解するとか容認することがあたかもよいことのように語られているようだが、果たしてそうなのだろうか」との問いかけが為されました。
これは先ほどの「すべての他者を容認せよ」という論点に回帰する問題です。
これに関して、ワタクシは相対的に物事を考えることが、実は高校生たちの日常的な作法になっていることを話題に挙げさせていただきました。
異文化の食生活についてならまだしも、「名誉のための殺人」という文化まで果たして許容できるのか、という問いかけに対しても割合許容できるとする意見が多い様子を見て、ワタクシはそれが無関心に基づく、あるいは他者との関係性を断ち切る口実にした相対的思考が根底にあるのではないかと考えています。
こうした背景がある中では、安易に「他者を容認せよ」とは言えないのではないか。
その問いかけに対して、ある参加者は、そこには「目的」の有無が重要になってくるのではないかと指摘します。
つまり、仕事においてはその職務という目的に、恋愛も結婚という目的に、テロに関しても平和という目的に向かって、というように容認することが何に向かっているによって鮮明になってくるのではないかというのです。
この意見をさらに深めることで、他者問題の何かが見えてきそうでしたが、残念ながらここでタイムアップとなりました。
最後は全員で 『愛する人に東横インをプレゼントしよう』 を持って記念撮影をいたしました。

真剣さの中にも爆笑渦巻くてつがくカフェとなりましたが、それもこれも、やっぱりぱんつさんと工藤さんの清々しいユニークさのおかげでした。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
高杉晋作の辞世の句を、まさに現代で体現されているようなお二人とは、その後の2次会3次会までおつきあいいただき、さらに楽しいひと時を過ごさせていただきました。
あらためて、遠路はるばるお越しいただきましたお二人には、心より感謝申し上げます。
とにかく素敵なこのカップルのユニークさを理解するには、まだまだ時間が足りません。
無限の他者性を理解するために、今後ますます「お二人を応援し続けたいと思います。
いつも以上に多数のご参加いただけた皆さまにも感謝申し上げます。
皆さまのお力を得て、てつがくカフェ@ふくしまも益々のおもしろさを追求してまいりたいと思います。