てつがくカフェ@ふくしま

福島市で哲学カフェをゆるゆるやってます。専門知識はいりません。
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てつがくカフェ@ふくしま特別編報告

2011年10月25日 00時43分07秒 | 〈3.11〉特別編記録
「いま、健康をてつがくする―福島で人間らしく生きるために―」


今回は上記のテーマのもと、原発事故・放射能汚染の被害が深刻化する福島で「人間らしく生きること」を考える機会となりました。
また、法政大学サスティナビリティ研究教育機構との共催による特別編ということもあり、約50名の方々にご参加いただきました。
テーマがテーマだけに、世話人としてはどのくらいの方々にご参加いただけるのか多少の不安もありましたが、みごとビューホテルの披露宴会場「安達太良の間」は多くの参加者に埋め尽くされました。



はじめに世話人の一人である牧野英二氏より、今回の開催趣旨を説明していただいてから議論に入ります。



なかなか発言しにくい硬い雰囲気のなか、まず切り出されたのはこの逃げ出したくても逃げ出せない福島という放射能にさらされた地において、なお「被曝しながら学べることはないか」との問題提起が為されました。
これに対しては、差別的な社会構造などが類似する水俣病問題から学ぶことが可能ではないかとの意見が出されます。
5年先の発症や賠償対象の線引きによる地域の分断、弱者ほど甚大な被害を受けていく構造など、それは単に医学的な問題ではなく社会構造上の問題であるというわけです。
一方、そこから立ち直った温泉地の令など観光産業の復興に関してヒントを得られる可能性があるなど、なお先行する公害問題からの学びを推奨する声が上げられました。
また、足尾銅山での公害の被害にあった子孫として、いつ発症するかわからない受け継がれた公害病に脅えながら生きる「将来世代の不安」を訴える発言もありました。
いずれにせよ、放射能問題には先行きの見えない不安、将来世代への影響といった点で、これらの事例の深刻な問題と共通します。

また、別の観点からは「健康でない」とはどのようなことかという問いが提起されました。
ここでも、やはり子どもの将来の健康への不安をめぐっての声が上がります。
しかし、それに対しては、「健康な子ども」という規定そのものが「ありのままの生命を否定する」ことに通じないだろうかとの疑問が提起されました。
たしかに、被曝によって障がい児が増加する可能性をもって、反原発の根拠として挙げる意見は根強いものがあります。
しかし、これは裏を返せば、障がい児の存在そのもの否定にも通じてしまいます。
これは被曝によって差別されているものが、無意識に他者を排除する論理をもって自己正当化している事態を浮き彫りにする鋭い指摘でした。

逆に「健康とは何か?」という本題に戻れば、そこには「心/身」の健康という二面性が認められます。
とりわけ、「心の健康」といった場合、それは「家族の機能」の喪失と関係が深そうだということです。
身体の面から健康を考えれば、もちろん子どもだけでも福島から避難した方がいいに決まっています。
しかし、その一方で家族がバラバラにされてしまえば、果たしてその環境で生きる子どもの心は健康といえるだろうか。
心身の健康が単独の個人の問題ではなく、家族との関係において図られなければならない事態がここに浮き彫りにされます。

その意味で言うと、この心/身の結びつきや家族関係が引き裂かれたことそのものが、福島で人間らしく生きること、つまり「健康」が破壊されたということでしょう。
果たして、この分裂の中でなお「健康」などありうるのでしょうか。
このような反問を抱かずに入られません。
そして、この分裂こそが実は「福島から避難するか/福島に留まるか」という苦しい選択にからむ最大の原因であるのです。

さらに、心の健康をめぐっては、避難した福島出身者に対する「いじめ」も話題に取り上げられました。
しかし、興味深かったのは、それはむしろ「いじめられる側」よりも「いじめる側」にこそ、心の不健康が宿っているのではないかとの意見です。
その意味で言えば、「心の不健康」もまた、福島に止まらないものとして日本中に拡散しているのかもしれません。
また、「正しい情報」を知ることが心の健康に通じることも指摘されました。
「自分の目で知ることの大切さ」や「情報源」の違いもまたそのことに関係するでしょう。
その意味で言うと、原発事故当初に政府や御用学者、マスコミが垂れ流した「安全」の連呼が、逆に福島の人々に不安と不信を増幅させたというのはなんとも皮肉なことです。

 

それにしても「正しい情報」とは何でしょうか?
私たちは「マイクロシーベルト」や「ベクレル」という言葉をしょっちゅう耳にしますが、現状に応じて変更される「安全基準」(そんなことがあっていいのか!?)が何なのか、もはや科学的な根拠で安心を得ているわけではなくなっている実態があります。
そうすると、正しい理論が「安心感」をもたらすのではなく、むしろ事実は逆で、自分の「安心感」を正当化してくれる理論だけを信じているのが実際なのではないでしょうか。
すると、やはり個人個人によって異なる放射能に対する危機感、つまり「感覚の違い」が問題の焦点となってきます。

議論の中でもとりわけ発言が集中したのは、この「感覚の違い」にもとづく「温度差」という問題でした。
もちろん、福島から離れた地域へ避難した方からは、その地と福島との危機意識の差も指摘されました。
しかし、深刻なのはむしろ、家族や友人、地域といった身近な場所で生じる「温度差」の問題です。
洗濯物の干し方一つ(外で干すか干さないか)で、自分と「感覚」が近いのか遠いのか確認するという話や、夫婦のあいだで異なる放射能への危機感(これについては男女による感覚の違いも指摘されました)の相違と不信。
特にこれから子どもを作ろうという世代の夫婦のあいだでは、「子どもをつくる/つくらない」ことの判断が分かれる苦悩も吐露されました。
これは避難をめぐって家族内で生じた分裂にも当てはまるでしょう。
この「温度差」によって友情が失われたとの話も出されました。
避難する/しないをめぐって家族・親戚から非難を受けたとの体験も挙げられました。
「心の健康」ということめぐっては、この人間関係の分断という問題が深刻であったことが浮き彫りになりました。

さらに、避難する/しないをめぐっては「負い目」という問題も挙げられました。
ある参加者によれば、福島に残りたかったにもかかわらず、避難させるために迎えにきた親によって、不本意ながら福島から離れざるを得なかったことへの「負い目」が語られました。
その参加者によれば、まさに被爆の地を離れることによって、「何か発言する資格がなくなるような気がした」とのことです。
また、年配の参加者からは原発設置を阻止することができなかったことに対する「負い目」についても語られました。
このように、自らの責任において生じたわけではない「負い目」を強いられていることこそが、まさに「人権を侵害されている」ことに他なりません。

これに関しては「健康で文化的な最低限度の生活とは何か?」という問題提起とも関わってくるでしょう。
「福島から離れてはじめて深呼吸ができた」や「東京の空気がうまいこと」など、空気を吸う、水を飲むといった当たり前のことが当たり前にできなくなってはじめて、わたしたちは「健康で文化的な生活」への問いを抱かざるを得なくなってしまいました。
さらにここでは、首都圏という大多数の「公益」のために犠牲となった福島をどのように考えるべきかという「正義」の問題を問う必要があるでしょう。
公益と人権、犠牲と正義。
このキーワードが「健康」と結びつくことで「人間らしい生」が見えてくるようです。

さて、2時間ほど議論が交わされたところで、いったん休憩に入ります。
その間、世話人によって論点が4つに絞られました。
さらに参加者から意見を加えていただき、次の5つの論点が整理されました。



1.健康/障がい・・・ありのままの生を肯定できないのか?
2.心/身体の健康・・・避難すべきか留まるべきか?+「母」の問題
これに関しては、なぜ母親だけが避難するしないをめぐって決断と負い目に苦しまなければならないのか、といった論点が付け加えられました。
3.健康で文化的な最低限度の生活とは?・・・正義
4.分断された人間関係をどう回復できるか?・・・信頼・安心+自粛ムード問題

これらに加えある学生さんからは、さらに
5.どのように原発問題を教育していけばよいか?
が挙げられました。
そして、後半1時間は主にこの5の論点をめぐって集中的に議論が交わされました。



高校現場で働く教員からは、高校生が「福島出身というだけで結婚できない」という不安を抱えていること、そして、身体感覚でもう原発はいらないと感じていること、さらに進行中の原発事故を果たしてどのように評価し、生徒に伝えるべきか悩むなど、学校現場で感じる子どもたちの実態が挙げられました。
また、ある母親の立場からは、震災後の夏休み宿題として子どもに各家庭の電力メーターから電力消費量を確認する課題が出されたことに、何か思想的なコワさを覚えたという経験も挙げられました。
何か身体的に感じることと、しかし原発をめぐる具体的な教育実践とのズレをわたしたちは感じているようです。

そのような中、福島で教師を志す学生からは、子どもたちに原発の何をどのように伝えればよいのかという問題提起がなされました。
そこには、単に恐ろしい事実だけを伝えるだけでは、子どもに震災や原発のトラウマを残すだけに終始してしまわないか、という深刻な懸念が含まれています。
これに対しては「自分で考える力を育てる」との意見が出されましたが、しかし単に客観的な事実を教えるだけで、子どもが自ら考えるようになるわけではないでしょう。
いったい目を背けたくなる事実をどのように扱い、子どもに伝えていくべきなのでしょうか。
果たして、震災・原発の事実を直視しながら、なおかつ子ども自らが考える力を育成することは可能なのでしょうか。
それに対しては、「どのような社会をつくりたいのか」という視点がなければならないだろうとの意見が出されました。
そこにはいかに目を背けたくなる事実であろうとも、未来への希望を照らし出しながら語り続けなければならないという、教育上の倫理が含まれていたように思われます。

また、こうした学校教育の可能性とは別に、社会教育での可能性を提起する意見も出されました。
その意見によれば、マスコミにおいてこそ情報は観念的になっており、その結果、被災地から離れた首都圏ではリアリティのない中でマスコミ情報に煽られた不安が増幅しているのではないかとのことです。
むしろ、福島という被災の現場においてこそ、その地域の人々は具体的なリスクへの構えや対処方法を地域の取り組みとして実践する中で、ポジティブな活動を生み出していきます。
そして、自分たちの生活は自分たちで決定していくという具体的な実践こそが、地域住民に力を与え、健康に結びついていくのではないかという興味深い視点が提起されました。

毎度のことですが、議論は5つの論点すべてについてふれることはできませんでした。
しかしながら、3時間という長時間にもかかわらず、最後まで熱心な議論が交わされたことは、このテーマに対する参加者の関心の高さを窺わせます。
むしろ、これらの論点は今後継続的にてつがくカフェ@ふくしまでテーマにしながら、継続的に議論して深めていきたいと思っています。

ご参加下さった多くの皆様には感謝申し上げます。ありがとうございました。
またぜひ皆さまとは一緒に考え、対話し続けていければ幸いです。
今後ともよろしくお願い申し上げます。
またお会いしましょう!!
ジャンル:
東日本大震災
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1 コメント

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お疲れ様でした。 (ビストロスズキ)
2011-10-25 15:23:28
負い目を感じている話や原発の話しなど、自分には無かった考えが聞くことができ、未来のために行動しようと思いました。。個人的に原発は反対ですので、原発にかわる電力について、話し合ってみたいです

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