私は高校生の時、地歴会というクラブに属して考古学を楽しんでいました。地歴会は高校生としては珍しいことに、独自に地点を定めて毎年発掘調査をし、遺物の整理をして報告書を出していました。発掘は毎年3月の春休みにしました。2年生の3月だったと思いますが、最後の発掘にエリ穴遺跡を掘りました。そして、ここからは縄文晩期の耳飾りが数多く発掘されました。それまでの常識を超えるような遺跡でした。秋に開催される文化祭までには遺物を洗って乾かし、一転ごとに細い筆でペンキを使って土器などに地点名などを書き込んで整理し、考察を加えて発表しなければなりません。何を発表するか。話し合いの結果、多量の耳飾りをどう解釈するか、班を作って班ごとに考察を加えて発表することにしました。当時は、縄文時代は狩猟採集で農耕は弥生時代になって始まったと教えられていた時代です。耳飾りばかり作っても、食料がないはずです。だとすれば、広範な交易、そして分業体制、農耕などを視野にいれなければなりません。僕たちは藤森栄一の縄文農耕を学んだり、顧問の先生に相談して勧められた、フレイザーの『金枝篇』を読んだりしました。拙いものでしたが、考古学だけでは縄文の社会を想像できないということだけははっきりわかりました。この時から、人類学や民俗学に興味を転じていきました。
今年の正月、久しぶりにクラブのOB会に出席しました。そこで、たまたまやはり出席した1学年下のT君に会いました。T君もやはり一緒にエリ穴遺跡の考察をした仲間で、今はW大の文学部で考古学を教えています。久しぶりに会い、なつかしく話したものですから、最近の自分の書いたものをお送りしたところ、お返しに抜き刷りやら論文コピーやらをたくさん送ってくれました。T君が考古学でどんな分野をやっているのか知らなかったので、抜き刷りを読ませてもらうと、ニューギニアで人類学の調査をしつつその成果を生かして、縄文時代の社会構造を考えるという興味深い仕事をされていることがわかりました。これは、高校生のあのころ、先行研究などろくに知らないままに人類学の成果から、自分たちの発掘した遺跡の解釈をしようとしていたことと、規模は違うにしても同じことではありませんか。そのとき私と同学年で研究したM君は、高校教員退職後の今を、エリ穴遺跡の遺物の整理に費やしているのです。なんだ、皆、高校生の頃の学問への思いを、何十年もたった今も続けているだけじゃないか。ひるがえってみれば、自分はあの頃からどんだけ成長できたのか、と考えてしまいます。また、年齢を重ねても初々しい気持ちで取り組むことができる、「学問」というもののありがたさも思います。