民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

折口信夫の論法

2015-04-25 20:21:04 | 民俗学

折口の論法について、多くの人がいっているが、いきなり断言するのである。例えばこうだ。

 田遊びは、余程古くからあったが、古くは、此を行う時期はいつであったか。普通には、五月田植えの時と云うが、私はそうは思わない。此式の行われたのは、年の始めか、旧年の暮れに取り越して置いたのである。其が、其だけでは、効果が薄い様に考えて、さなえを植える時に、もう一度此を行う様になった。だから、元来は田植えの時にはなかったものだ。(『古代研究(民俗学篇2)』)

こんな風にいわれても、ほとんど一行ごとに、「なんで。なんでそう言えるの?」とひっかかってしまい、思考が前に進まない。全体として、折口節を認めるという所から出発しないと、どうにもならないのである。そのかわり、認めてしまえば後は折口先生のいうとおり、まるでタイムマシンで見てきたかのごとく論は展開していく。これは教祖の言葉のようなものである。連想が連想を呼び、つけいる隙がなくなってしまう。学者というよりも芸術家、カリスマといったほうがよいのだろう。そんな折口は、性交のことを大胆にさらりと書いている。物忌みして巫となったムラの女と、物忌してマレビトとなった若者との聖婚が性交なのである。折口には日常の夫婦の交合は眼中にない。きっと誰かが書いているが、同性愛者である折口にとっての性交とはいかなるものだったのだろうか。少なくとも書いてあるものからは、隠して語らないものとは受け取れないが。