久しぶりに図書館に行ったら、近刊の本はすぐに借りられてしまうので書架にあることはめずらしいのですが、大江健三郎の最後の小説、ノーベル文学賞受賞後は最後といいながら何冊も本を出していますが、『晩年様式集』をみつけて借りてきました。例によって、最初はなかなかその小説世界に入り込めないので、手元にある大江光のCDを聞きながら読んでいるとき、佐村河内のゴーストライター事件が大々的に報じられています。人々は作品よりも背後の物語を欲し、それに出版社やマスコミがのっかったというような報道がなされ、思いのほかに売れてしまい引っ込みがつかなくなってしまったが、ゴーストライターの罪の意識で明るみに出た、というストーリーですが、多分これも物語の部分を形成していて、真実は違った所にある、例えば報酬をめぐる争いとか、ような気もするのです。それはともかく、今度の事件で障害者の芸術に対する見方に、逆のフィルターがかかりはしないかと心配するのです。そんな思いでいるとき、CD『新しい大江光』のライナーノーツに大江健三郎が、次のように書いているのを発見しました。
一方で私の個人的な態度としては、光との共生について小説やエッセイを書く場合―こうした障害を持つ子供という話は小説の出来具合を正面から否定できないから、アンフェアだという、どこか底意の見えている批判も受けてきましたが―、また光の音楽自体を社会に向けて発表する場合、息子が知的な障害者であることは私たちの家庭においてむしろ自然なあり方であって、それは特別な条件ではないと、その思いのままなにも隠さないようにしてきました。テレヴィで光の発作シーンを映したのも、そのような流れにおいてでした。知識人として優秀な作曲家の仕事もあれば、光のような知的障害のある人間の仕事もある。それは人間の個性の問題であって、それを認めてもらった上で、光の音楽が受け入れられるかそうでないか、それだけのことだと。
そうはいっても、「現代のヴェートーヴェン」というキャッチコピーは、大きなインパクトがありました。それをはずし、ゴーストライターの作曲家本人の名前で再び『交響曲広島』と題する曲を本来のテーマで発売したとき、どれほどの評価を受けるのか。それは要するに、受け手の側に音楽を音楽だけで聴く耳があるのかどうかにかかってきます。日展の審査が、ボス審査員のさじ加減でおこなわれたように、高級ホテルの食材が偽装だといわれなければそのまま通用していたり、一般人の目は、耳は、舌は、そんなに確かなものではないのですね。だから難しい。障害があるのに、こんな作品ができると判断するのか。障害がありながら努力する姿はすばらしい。だが作品としてはいまいちだ、といえるかどうか。逆に、障害者の作る作品などどうせ大したものではないと最初から決め付ける、パラリンピックはスポーツとしてみるものではないと決め付けてしまうか。
本物を見つけられる心を養いたいものです。