民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

芸能人と社会規範

2017-08-06 08:23:46 | 民俗学

また芸能人の不倫が報じられ、あたかも大きな事件かのような報道がされています。芸能人と不倫の話題は人々の関心を誘い、視聴率を稼ぐかっこうの話題なのでしょう。しかし、そもそも芸能人に社会的規範を求めることが矛盾していると私は思うのです。この事は以前にも書いた気がしますが、年寄りの繰り言だと思ってお許しください。

芸能とは、神に捧げられるものであり、時には芸能を捧げる演者が神そのものにもなりうる行為です。この国では、美大・音大はありますが俳優を養成する大学はありません。アメリカなどは俳優養成大学があり、俳優もオフにはどんな大物俳優であってもそうした場所にフィードバックして学び、オファーに備えるのだそうです。我が国では芸能は「家業」とされてきました。特定の家に生まれた者が幼い時から厳しい修行を積み、修行の中で所作を我が芸能者物として神と一体化できたのです。芸能とはある種の印のついた人だけができる職業でした。そして、その職業は蔑まれながら敬われるというアンビバレントな性格をもったものでした。私が子どものころは、まだそうした感情がうっすらと残っていたように思います。旅の芸能者(乞食)が家々を回って何某かの芸を披露し、お皿に盛った米をもらうということがたまにはありました。将来芸能人になりたいなどといえば、とんでもない話だ、あんなものはまともな者がつく仕事ではないとあいてにされなかったのです。芸能人とは特別な能力を持った人だけができる仕事だと考えられていました。

今はといえば、簡単に高給を得ることができる比較的簡単な仕事だと思われているのではないでしょうか。誰でもなれそうなのが芸能人なのです。厳しい訓練を経てようやくなれる噺家のような仕事もありますが、見てくれがよくて事務所が上手にプロデュースしてくれれば売れるのですから。しかし、元来芸能人とは社会規範に縛られていてはできない職業なのです。この世とあの世、神と人、聖と俗とをゆきつ戻りつして一般人には見えない世界を見せてくれるのが「芸能の輩」です。社会規範の外側にいてこそできる仕事なのですから、誰にでもできそうな簡単な職業だと勘違いして、本物の芸能人に社会的規範を求めるのはない物ねだりというものでしょう。芸能人も、芸能を職業とする以上、まっとうな一生を送り畳の上で死ねるなどとは思わないことです。観客が芸能人に倫理を求めるのは、誰でもなれそうだと思わせられる程度の芸能人しかいなくなったことの結果でしょう。神との交歓ができる芸能人でもないのに、自分が芸能人だと勘違いしているゲイノージンが自分で招いた報いだともいえるでしょう。