民俗断想

民俗学を中心に、学校教育や社会問題について論評します。

長野県飯山市教育委員会編 『小菅の柱松ー北信濃の柱松行事調査報告書ー』(平成20年)を読む

2016-07-21 14:35:51 | 民俗学

先に書いた2つの疑問を解決しようと、報告書をかねり真剣に読みました。こうやって読むと、報告書も意義あるものと感じます。読んでわかったことを簡単にまとめます。正式にな私なりの柱松見学記録は別の箇所にまとめて発表するすもりです。

1 小菅神社里社と奥社について、当初は一体のものと考えると、柱松行事での行列の巡行経路が説明できずおかしいと感じました。この件について結論からいうと、私の感じた違和感はただしく、今は同じ小菅神社といっているのですが、里社と奥社とは別のものであるようだたわかりました。里社は小菅の一般の住民にとっての氏神で、祭神は素戔嗚尊・平城天皇・嵯峨天皇の3神で、主祭神はスサノオノミコト=牛頭天皇だといいます。これに対して奥社は、小菅山元隆寺に属する多くの坊を統括する大聖院の奥の院であったといいます。小菅神社奥者の祭神は、小菅権現(摩多羅神・馬頭観音)を主神に、熊野権現(伊弉冉尊・阿弥陀如来)、金峯権現(安閑天皇・釈迦如来)、白山権現(伊弉諾尊・十一面観音)、立山権現(大国魂命・無量寿仏)、山王権現(大已貴命・薬師如来)、走湯権現(瓊瓊杵尊・准胝観音)、戸隠権現(手力雄命・正観音)の八所権現をまつったものといいます。簡単にいえば、祭神が違いますから里社と奥社のそれぞれから神を迎えて祭りがおこなわれるのです。とはいえ、里社に向かって90度の位置にお旅社があり、このお旅所にテンノウサマを迎えて行う神事が柱松ですから、祇園の祭りといってよいのではないでしょうか。祇園祭は京都の八坂神社の夏祭りからはじまる、マチの祭りです。夏に疫病の流行を抑えるのが大きな意味です。人口が密集する都市の夏、まして衛生状態の悪いかつての時代には、疫病が蔓延して多数の人々が亡くなりました。そうした病を防ぐための祭りです。現在も城下町を中心に多くの町で、祇園祭は行われています。ところが、小菅という山の中で、都市の祭りがおこなわれてきたのはなぜでしょうか。それは、小菅という集落がマチ的な性格をもっていたからです。以前に私は、ヤマとサトとマチという論文において、ヤマは多分にマチと同じ性格をもっていて、ヤマはマチであると主張しました。ヤマもマチも貨幣を得て物を買わなければ生活がなりたたなかったからです。宗教都市小菅はマチだったのです。

2 祇園祭りに柱松がどうやって集合したのでしょうか。柱松は山で修行する人々の宗教行事として、つまり験比べとして当初は集落の祭りとは独立して行われていたと考えるのが普通ではないでしょうか。ついで、修験が宗教的な力を失うに伴い、祭りはムラの行事に組み込まれていった。笹本正治氏は、「慶長9年に馬市を開くために祇園祭の一環として柱松が組み入れられた場合、1604年から面々として柱松神事は続けられてきたことになる。すでに小菅の柱松柴灯神事は400年以上の歴史を持つ。現在のような柱松神事が行われる以前に、修験道の世界として小菅があったことは確実で、そこでの柱松が前提とされていたことを考えるなら、その歴史はそれよりもはるかにさかのぼる。」と述べている。いずれにしても、小菅を中心にして周辺地域に伝わる柱松の神事は、修験道の宗教行事がその後地域の祭りの中に取り込まれ、取り込まれた形で周辺に伝播したものと考えられます。