教育と平等―大衆教育社会はいかに生成したか (中公新書)苅谷 剛彦中央公論新社このアイテムの詳細を見る |
☆本書は、苅谷剛彦氏の傑作。教育関係者のみならず、市民必読書である。国家の教育行政の良心とその限界がわかる。
☆戦後の公立学校の教育のアンビバレンス。それは「教育の平等」と「個性化」の葛藤である。前者を「結果の平等」、後者を「平等の機会均等」としている。
☆しかし、その本質を「平等」と「自由」の近代社会のアポリアであることもきちんと認識しているところが、今回の書の明快なところであり、日本の教育社会学における保存版でもあろう。
☆苅谷氏は、戦後教育改革は、高邁な思想と知識人によって、「個性の重視」「個性の自己実現」を目標に進んだが、財政的・人材的・教材インフラ的裏付けがなかったために、すぐに挫折した。
☆教育の機会均等という名の画一化が始まった。しかし、80年代から、その画一化批判のルーツとして生き続け、結果的に平等の機会均等の改革が行われ、教育に市場の原理の導入などを引き起こし、やはり結果的に画一化の促進と格差というパラドクスを生みだしてしまったと。
☆高邁な思想はいいんだけど、平等の共通基準を論議しないままだったので、そうなったと。
☆まさにOECD/PISAなどが学力評価の基準であるCriteriaを探究しているのに、日本の社会では、この点を顧みようとしないのは、戦後のこの教育の画一化の乗り越え方に問題があったからなのだろう。
☆いままさにこのCriteriaがポイントなのだ。このCriteriaなき批判的思考が、日本の戦後の教育の標準化路線を批判していると錯認しながら、促進していることに気付かなかった歴史性の特徴なのだろう。
☆それから傑作ではあるが、1つ大きな見落としがある。それは戦後教育改革の高邁な思想家や知識人を十把一絡げにしていることである。
☆あるいはここをあえて分析していないところに問題がある。せいぜいその知識人に、どこかで丸山真男と大塚久雄を上げていたが、かれらの個人主義や個性化の背景には宗教があることを忘れてはならない。
☆戦後教育改革の高邁な思想の部分は、実は吉田茂と南原繁という「2人のシゲル」のクリスチャン人脈も含まれる。もちろん彼らは、宗教教育をせよと言っているのではない。Criteriaの議論をしようといっていたのだ。「聖なる」基準をという表現を南原繁ならいうのかもしれないが、それは当時トレンドだった新カント主義派の用語。基準が普遍的であればあるほど「聖なるもの」であるが、それだけに危険でもある。その信頼性・妥当性・正当性をどうクリティークするかがポイントだった。
☆しかし、それ自体宗教として、高邁な思想として知識人を排除してきたのが、教育行政なのだ。“Criteria Blind”。もちろん、2人のシゲルは、「聖なるもの」の教育空間を残し、公立学校が「画一的な教育空間」になるのをなんとか阻止しようとした。“Criteria Blind”を拓く空間を残したのだ。
☆それが「私立学校の教育空間」なのだ。苅谷氏は今年の9月までは東京大学の教職員でもある。それ以降はオックスフォード大学教授一本で行くのだろうか?
☆そうなれば、呪縛が外れるから、私立学校について批判的表現をするかもしれない。そしてそれが本当の傑作を生むのではないかと期待している。