教育のヒント by 本間勇人

身近な葛藤から世界の紛争まで、問題解決する創造的才能者が生まれる学びを探して

存在の響きを広げる若き人間

2008-08-18 01:41:23 | 文化・芸術
☆2006年の教育基本法改正以来、≪官学の系譜≫と≪私学の系譜≫をどうとらえようかと模索している。前者は「管理の不足」を課題解決のゴールとし、後者は「存在価値の喪失」の復元を解決の理念とする。

☆≪私学の系譜≫の現実態として私立学校があるけれど、すべての私立学校がこの系譜に属するわけではない。現実と理想のGAPを明確にするには私立学校のシステムとその実態を観察する以外にはないのだが、≪私学の系譜≫の思想性、世界性、歴史性を認識するには、それだけではムリであると最近少し絶望気味である。

☆しかし、そんなとき、私立学校出身者の思想家や小説家の書いたものを読んでいるうちに、彼らが中高時代にその思想的影響をかなりまともに受けていることに改めて驚き、その系譜をたどると確かに≪私学の系譜≫にいきつくなぁという直感めいたものが生まれてきた。

☆それで、東浩紀氏(氏は国立の中高出身者だけれど中学受験組ということで私立学校出身者と共有するものがあるかな・・・)、北田暁大氏(聖光出身)、宮台真司氏(麻布出身)、平野啓一郎氏(明治学園出身)などの作品を読んでいる。

☆そんなふうに≪私学の系譜≫のクライテリアのフィルターを作って、様々な人間の生き様を見てみると、リアルな私立学校を卒業していようがいまいが、≪私学の系譜≫に属している人々がたくさんいることに気づいた。

☆≪私学の系譜≫というのは、生き様を決定づける学びのシステムのことであるということになるのであるが、それが教育基本法の改正によって、阻害されることになる危機感が直感的にある。この感覚は≪私学の系譜≫としての私立学校の教師や≪私学の系譜≫としての公立学校の教師と共有しているものである。

☆とても長い枕だったけれど、この教育基本法の改正の動きは、憲法改正や憲法9条問題と実は重なるのである。この重なりの問題は、結局存在の響きあいをいかにして表現するのか、外部性の導入の正当性と信頼性と妥当性をコミュニケーションによって絶え間なくチェックしていく存在の響きを他者と自己と形作る自己の制作あるいは編集という芸術活動のテクノロジーをいかに陶冶していくのかという問題である。

☆そんなことを考えていた時、私の思いなどとっくに美術展というプロジェクトで実行している若者に出会った。それは渡辺真也氏。氏が私立中高出身かどうかはわからないが、ハイデガーではなくレビナス的存在論を背景に、存在の文脈を幾人かのコンテンポラリーアーティストの作品の展示De-signすることで、織りなしていく語り部の姿は、≪私学の系譜≫の生き様である。

☆しかも渡辺氏の場合、宮台真司氏や東氏、北田氏とはちがって、≪私学の系譜≫の第3世代的な感覚ではなく、第1世代の新島譲や江原素六のような生き様である。第2世代の新渡戸稲造や内村鑑三のような生き様ともいえるかもしれない。

☆宮台真司風にいえば、枢軸国的保守でも連合国的保守でもない。保守本流なのかもしれない。いずれにしても外部性なき大きな物語の消失が、外部性そのものを断絶する可能性のあるという意味で不可能性の時代を迎えているにもかかわらず、いやそうだからかもしれないが、外部性としての存在の響きの共振を広げようという若き人間がいることに驚き、そのような人間の生き様を形成する学びのシステムとしての≪私学の系譜≫は、どこにあるのか探すことは、そしてシェアすることは、意外と大切なことではないかと少し気分が開けた。

☆で、要するに何がトリガーになって書き綴ったのか。以下のサイトやブログを見るとわかると思う。そして、ぜひ代官山と品川にでかけて心身感覚で感じてほしい。

●アトミック・サンシャインの中へ渡辺真也氏の世界性がある。

●「アトミックサンシャインの中へ」渡辺真也・照屋勇賢インタビュー vol.1

●「アトミックサンシャインの中へ」渡辺真也・照屋勇賢インタビュー vol.2

●「渡辺真也×照屋勇賢×茂木健一郎」の対話

悪とは何か?

2008-08-18 00:00:05 | 
決壊 上巻
平野 啓一郎
新潮社

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☆平野啓一郎氏の小説はいつも衝撃的である。1975年生まれの若手作家でありながら、中世カトリック修道院以来の普遍論争の知識があちらこちらに見え隠れする。

☆あまりにも日本の今の時代の犯罪舞台の小説であるのに、日本を超えたというか、外国の今日性をも超えたところに拠点を置いて表現している。

☆今朝のNHKの日曜討論「相次ぐ通り魔事件 いま何が必要か」は、最後の5分くらいしか見ることができなかったが、そこで、平野氏は、大きな物語はなくなって、個人個人の物語をつくるようにという時代で育ったけれど、結局個性を形成しても社会が受け入れない。勝ち組負け組という粗雑なシステムを同世代に埋め込んでしまう社会こそなんとかしなければというような趣旨のことを言っていたような気がする。

☆ジャーナリストの斎藤貴男氏も、そんな社会ダーヴィニズムのシステムこそ学校においても問題にしなければならないと平野氏に共鳴していたのに、日本教育大学院大学教授の河上亮一は、学校はそいうところではない。一人前の社会人に育てる場所だし、経済社会とは隔絶されているところだから、そこに経済社会の実際を持ち込まれても困るなんて応答をしていた。

☆学校という教育の社会は理想で、経済社会は現実社会というわけでもないにもかかわらず、現実を見せない場とは何だろう。

☆決壊(下)の最後の部分で、主人公がさらりとこういう。中世において悪とは「善性の欠如」であったけれど、現代の悪は「健康の欠如」であると。日曜討論を見て、現代の学校システムは、この「健康の欠如」を埋めるためのシステムなのかと思った。「大きな物語=善性」の欠如は問題にならないのである。

☆その他のメンバー、吉岡忍氏(ノンフィクション作家)、奥谷禮子氏(経済同友会幹事 人材教育・派遣会社社長)、斎藤環氏(精神科医)も平野氏の問いかけに共鳴していたのに、なぜか川上氏は、無視していた。学校社会が経済社会にかかわると歪みが生じるというリスクを隠ぺいする頑迷固陋なその姿が、世の決壊を生んでいるというのに・・・。