☆2006年の教育基本法改正以来、≪官学の系譜≫と≪私学の系譜≫をどうとらえようかと模索している。前者は「管理の不足」を課題解決のゴールとし、後者は「存在価値の喪失」の復元を解決の理念とする。
☆≪私学の系譜≫の現実態として私立学校があるけれど、すべての私立学校がこの系譜に属するわけではない。現実と理想のGAPを明確にするには私立学校のシステムとその実態を観察する以外にはないのだが、≪私学の系譜≫の思想性、世界性、歴史性を認識するには、それだけではムリであると最近少し絶望気味である。
☆しかし、そんなとき、私立学校出身者の思想家や小説家の書いたものを読んでいるうちに、彼らが中高時代にその思想的影響をかなりまともに受けていることに改めて驚き、その系譜をたどると確かに≪私学の系譜≫にいきつくなぁという直感めいたものが生まれてきた。
☆それで、東浩紀氏(氏は国立の中高出身者だけれど中学受験組ということで私立学校出身者と共有するものがあるかな・・・)、北田暁大氏(聖光出身)、宮台真司氏(麻布出身)、平野啓一郎氏(明治学園出身)などの作品を読んでいる。
☆そんなふうに≪私学の系譜≫のクライテリアのフィルターを作って、様々な人間の生き様を見てみると、リアルな私立学校を卒業していようがいまいが、≪私学の系譜≫に属している人々がたくさんいることに気づいた。
☆≪私学の系譜≫というのは、生き様を決定づける学びのシステムのことであるということになるのであるが、それが教育基本法の改正によって、阻害されることになる危機感が直感的にある。この感覚は≪私学の系譜≫としての私立学校の教師や≪私学の系譜≫としての公立学校の教師と共有しているものである。
☆とても長い枕だったけれど、この教育基本法の改正の動きは、憲法改正や憲法9条問題と実は重なるのである。この重なりの問題は、結局存在の響きあいをいかにして表現するのか、外部性の導入の正当性と信頼性と妥当性をコミュニケーションによって絶え間なくチェックしていく存在の響きを他者と自己と形作る自己の制作あるいは編集という芸術活動のテクノロジーをいかに陶冶していくのかという問題である。
☆そんなことを考えていた時、私の思いなどとっくに美術展というプロジェクトで実行している若者に出会った。それは渡辺真也氏。氏が私立中高出身かどうかはわからないが、ハイデガーではなくレビナス的存在論を背景に、存在の文脈を幾人かのコンテンポラリーアーティストの作品の展示De-signすることで、織りなしていく語り部の姿は、≪私学の系譜≫の生き様である。
☆しかも渡辺氏の場合、宮台真司氏や東氏、北田氏とはちがって、≪私学の系譜≫の第3世代的な感覚ではなく、第1世代の新島譲や江原素六のような生き様である。第2世代の新渡戸稲造や内村鑑三のような生き様ともいえるかもしれない。
☆宮台真司風にいえば、枢軸国的保守でも連合国的保守でもない。保守本流なのかもしれない。いずれにしても外部性なき大きな物語の消失が、外部性そのものを断絶する可能性のあるという意味で不可能性の時代を迎えているにもかかわらず、いやそうだからかもしれないが、外部性としての存在の響きの共振を広げようという若き人間がいることに驚き、そのような人間の生き様を形成する学びのシステムとしての≪私学の系譜≫は、どこにあるのか探すことは、そしてシェアすることは、意外と大切なことではないかと少し気分が開けた。
☆で、要するに何がトリガーになって書き綴ったのか。以下のサイトやブログを見るとわかると思う。そして、ぜひ代官山と品川にでかけて心身感覚で感じてほしい。
●アトミック・サンシャインの中へ渡辺真也氏の世界性がある。
●「アトミックサンシャインの中へ」渡辺真也・照屋勇賢インタビュー vol.1
●「アトミックサンシャインの中へ」渡辺真也・照屋勇賢インタビュー vol.2
●「渡辺真也×照屋勇賢×茂木健一郎」の対話
☆≪私学の系譜≫の現実態として私立学校があるけれど、すべての私立学校がこの系譜に属するわけではない。現実と理想のGAPを明確にするには私立学校のシステムとその実態を観察する以外にはないのだが、≪私学の系譜≫の思想性、世界性、歴史性を認識するには、それだけではムリであると最近少し絶望気味である。
☆しかし、そんなとき、私立学校出身者の思想家や小説家の書いたものを読んでいるうちに、彼らが中高時代にその思想的影響をかなりまともに受けていることに改めて驚き、その系譜をたどると確かに≪私学の系譜≫にいきつくなぁという直感めいたものが生まれてきた。
☆それで、東浩紀氏(氏は国立の中高出身者だけれど中学受験組ということで私立学校出身者と共有するものがあるかな・・・)、北田暁大氏(聖光出身)、宮台真司氏(麻布出身)、平野啓一郎氏(明治学園出身)などの作品を読んでいる。
☆そんなふうに≪私学の系譜≫のクライテリアのフィルターを作って、様々な人間の生き様を見てみると、リアルな私立学校を卒業していようがいまいが、≪私学の系譜≫に属している人々がたくさんいることに気づいた。
☆≪私学の系譜≫というのは、生き様を決定づける学びのシステムのことであるということになるのであるが、それが教育基本法の改正によって、阻害されることになる危機感が直感的にある。この感覚は≪私学の系譜≫としての私立学校の教師や≪私学の系譜≫としての公立学校の教師と共有しているものである。
☆とても長い枕だったけれど、この教育基本法の改正の動きは、憲法改正や憲法9条問題と実は重なるのである。この重なりの問題は、結局存在の響きあいをいかにして表現するのか、外部性の導入の正当性と信頼性と妥当性をコミュニケーションによって絶え間なくチェックしていく存在の響きを他者と自己と形作る自己の制作あるいは編集という芸術活動のテクノロジーをいかに陶冶していくのかという問題である。
☆そんなことを考えていた時、私の思いなどとっくに美術展というプロジェクトで実行している若者に出会った。それは渡辺真也氏。氏が私立中高出身かどうかはわからないが、ハイデガーではなくレビナス的存在論を背景に、存在の文脈を幾人かのコンテンポラリーアーティストの作品の展示De-signすることで、織りなしていく語り部の姿は、≪私学の系譜≫の生き様である。
☆しかも渡辺氏の場合、宮台真司氏や東氏、北田氏とはちがって、≪私学の系譜≫の第3世代的な感覚ではなく、第1世代の新島譲や江原素六のような生き様である。第2世代の新渡戸稲造や内村鑑三のような生き様ともいえるかもしれない。
☆宮台真司風にいえば、枢軸国的保守でも連合国的保守でもない。保守本流なのかもしれない。いずれにしても外部性なき大きな物語の消失が、外部性そのものを断絶する可能性のあるという意味で不可能性の時代を迎えているにもかかわらず、いやそうだからかもしれないが、外部性としての存在の響きの共振を広げようという若き人間がいることに驚き、そのような人間の生き様を形成する学びのシステムとしての≪私学の系譜≫は、どこにあるのか探すことは、そしてシェアすることは、意外と大切なことではないかと少し気分が開けた。
☆で、要するに何がトリガーになって書き綴ったのか。以下のサイトやブログを見るとわかると思う。そして、ぜひ代官山と品川にでかけて心身感覚で感じてほしい。
●アトミック・サンシャインの中へ渡辺真也氏の世界性がある。
●「アトミックサンシャインの中へ」渡辺真也・照屋勇賢インタビュー vol.1
●「アトミックサンシャインの中へ」渡辺真也・照屋勇賢インタビュー vol.2
●「渡辺真也×照屋勇賢×茂木健一郎」の対話