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小石川散歩2  澤蔵司稲荷

2008年10月16日 15時49分37秒 | 観光
 澤蔵司(たくぞうす)稲荷。
 その境内にあった案内板を引用。手抜きでスマソ。

 伝通院の学寮栴壇林(せんだんりん)に、澤蔵司(たくぞうす)という修行僧がいた。
 僅か三年で浄土宗の奥義を極めた。元和六年(一六二〇)五月七日の夜、学寮長の極山和尚(ごくざんおしょう)の夢枕に立った。
 「そもそも 余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。
 今より元の神にかえるが、永く当山(伝通院)を守護して、恩に報いよう。」
 と告げて、暁の雲にかくれたという。(『江戸名所図会』『江戸志』)
 そこで、伝通院の住職廓山上人(かくざんしょうにん)は、澤蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院(じげんいん)を別当寺とした。
 江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。
 『東京名所図会』には、「東裏の崖下に狐棲(こせい…狐のすむ)の洞穴あり」とある。
 今も霊窟(おあな)と称する窪地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祭られている。
 伝通院の門前のそば屋に、澤蔵司はよくそばを食べに行った。
 澤蔵司が来たときには、売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。
 主人は、澤蔵司は稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。
 また、すぐ前の善光寺坂に椋(むく)の老樹があるが、これには澤蔵司がやどっているといわれる。
 道路拡幅のとき、道をふたまたにしてよけて通るようにした。
 澤蔵司 てんぷらそばが お気に入り (古川柳)


 この近所にぼくの親父の同級生が住んでいた(もう亡くなってしまったのだが)。
 「この辺に幸田文が住んでません?」ずいぶん昔ぼくは彼に尋ねたことがあった。
 「ああ、あや婆さんか。ゴミ出しんときなんかに挨拶するよ」
 そうかあ、幸田文もゴミ出しするのか、自分で。この澤蔵司稲荷のすぐ隣に彼女は住んでいた。


 写真だと明るく映っているんだけれど、実は昼なお暗い。とても都心だとは思えない雰囲気。いや、ほんと、一人で来ると、ちょっと怖い。



 小石川は晴れていたのだが、フラッシュをたかないと写真なぞ撮れない明るさ。
 お稲荷さんは身近な神さまであると同時に複雑な出自をもつ神さまだ。
 それについては、いつかまた。



 上の説明文にもあった椋の木。
 ここらへんは急坂で、下ると東京ドームへつながる礫川(れきせん)通りに出る。礫=小石。つまりこの通りが昔の小石川という川だったのである。今は通りの下、暗渠として流れている。
 谷になっている通りの下に川が流れているので、ぼくの若い頃はよく氾濫した。マンホールが飛んだこともあった。
 大雨が降ると、学校の帰りにわざわざ見に行く馬鹿な小学生でありました。
コメント (2)
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