EURO2008が面白すぎる。下着泥棒でもないのに、毎朝3時半起床っすよ。
トルコはどこまで奇蹟を起こせば気が済むんだ!? ロシアのアルシャビンとパブリュチェンコは今すぐプレミアやリーガでも十分通用しそうだし、スペイン対イタリアを見ていてオランダはどうしてこのイタリアから3点も取れたんだろう、と不思議になったり、もうすごいです、いろいろと。
それに引き換え、日本対バーレーン見て、なんだかな、と。1,2位の違いが存在しないから、消化試合そのもの。つまんないな、と。バーレーンと日本が戦ってもワクワクしないのだ。アウェイでフバイルに1点取られるより、ビジャに4点取られるような試合の方がワクワクする。フィジカルは強いかもしれないが、中東のサッカーは見ていてつまらない。いっそ、ロシアの隣ってことで、UEFAに入れてもらえないだろうか(二度とワールドカップには出られないかもしれないが)。
そんなわけで、先週読んだ本はこの4冊。カート・ヴォネガットは本庄からの帰りの電車の中で読んだ。自転車旅は不調だったけれど、車窓を流れる景色を横目に、適度な疲労の中の読書は快適だった。
カート・ヴォネガット「国のない男」 NHK出版
自国の歴史をおとしめて考えることを自虐史観というらしい。しかし、およそ知性なるものを多少は持ち合わせている人間なら、自国の歴史に点在する汚点に気づかないはずがない。気づかない人間は、気づかないふりをしているのか、それとも本当にバカなのか、そのどちらかだ。
考えてみればいい。たとえばフランス。あの国を地上の楽園と考えるだろうか? アメリカ合衆国。あれを人類の理想郷と考えるだろうか?
日本だって同じことだ。悪いことだってさんざやったさ、そりゃ。
そういう知性の働きを自虐というのなら、さしずめカート・ヴォネガットは自虐のアメリカチャンピオンだろう。
「ところで、マルクスがそう書いたとき(「宗教はアヘンだ」)、われわれアメリカ人はまだ奴隷を解放していなかった。当時、慈悲深い神の目には、いったいどちらが喜ばしいものに映っただろう。カール・マルクスか? アメリカ合衆国か?」
彼が大切にした思いやりとユーモアは21世紀においてますます重要性を増していると思うのだが、そのどちらもがジョージ・ブッシュに著しく欠如していることを隣国人として非常に残念に思う(ま、それが日本の政治家にあるかどうかはおいといて)。
鈴木忠「クマムシ?!」 岩波書店
緩歩動物門には真クマムシ綱、異クマムシ綱、中クマムシ綱の3つの綱があるのだが、このうち中クマムシ綱は謎のクマムシだ。1937年雲仙の温泉でドイツ人のラームが発見したものが唯一の中クマムシで、その標本も今は残っていない。
という知識が人生においてどんな役に立つかは知らない。しかし、クマムシという生き物は実に興味深いではないか。
著者のクマムシに対する愛情もまた楽しい。
とにかくクマムシというものを知らない方は、ネットで検索してみて下さい。きっと、「おお、こんな生き物が!」と思うはず。
奥泉光「ノヴァーリスの引用」 新潮社
推理すればするほど錯綜する石塚の死。ミステリーのような、ファンタジーのような、そしてホラーの体を成しつつ、現代におけるイエスの甦りのシミュレーション。石塚=聖痕を持つ魚=イエス(ローマでのキリスト教禁教時、イエスは魚として描かれていた)。
すごい面白い。響きが幾重にも重なり、オルガンを強奏したときのようなゴシック感に溢れた小説。
考えてみれば、聖人と呼ばれる人たちは、現代の表現で言えばKYの極致。共同体にとって危険であり、さぞ受け入れがたい存在であったことだろう。
藤巻一保 「真言立川流」 学研
とある多摩地方の山中で暮らす三毒和尚のところに、狐について話を聞かせてくださいと訪れた戯作者水骨さん。頼み込んでようやく7夜にわたって、話を聞かせてもらうことになったのだが………。
という枠組みで語られる7つの狐の変奏曲。初夜「髑髏本尊」に始まり、二夜「ダキニ天」(本では漢字だが、変換できず)、三夜「如意宝珠」、四夜「仏舎利」、五夜「真言立川流」、六夜「金輪聖王」、そして七夜「北斗七星」と狐を巡る話はこんなにも豊かな変奏を奏でるのである。
狐は単なる動物ではない。古くから死霊や祖霊の化身と見なされたり、その予知能力を期待されたり、また、食の神として祀られたり、荼枳尼天と習合したり、と非常に幅の広い性質を持っていた。
そうした幅の広さが、中世神道の文脈の中で、さまざまなものと習合し、大いなる現世利益の神として君臨するにいたったのだ。たとえば、両部神道が胎蔵界、金剛界曼荼羅を用いることによって、伊勢神宮の内宮・外宮が車輪の両輪のようなものであることを主張したことは、以前ご紹介した山本ひろ子の「中世神話」に描かれていたが、それによって、狐とつながるウケモチ神であった外宮の豊宇気大神が大日如来を仲立ちに天照大神の別の表れとして存在することになる。つまり、狐=天照大神というストーリーが誕生するのだ。そうした狐=XXXという等号はいたるところに見られ(そうした無茶が中世神話の面白さでもあるのだが)、狐=荼枳尼天はほとんどあまねく存在と化していく様が読むに連れあきらかになっていく。
さらにこの本の優れているところは、立川流の根本を比喩として捉えている点である。どうしてもおどろおどろしいセックス教団としてのイメージがつきものの立川流であるが、そんなことはない、かなり意義深い教義であることがわかる。
まあ、聞き手役(水骨さん)が読者のための啓蒙係になってしまうのは、仕方がないところだろうが、それまでちゃんと受け答えしといて、真言宗の基本である「理趣経」知りませんなんてこたあないだろう、とツッコミどこもそこはかとなく。
トルコはどこまで奇蹟を起こせば気が済むんだ!? ロシアのアルシャビンとパブリュチェンコは今すぐプレミアやリーガでも十分通用しそうだし、スペイン対イタリアを見ていてオランダはどうしてこのイタリアから3点も取れたんだろう、と不思議になったり、もうすごいです、いろいろと。
それに引き換え、日本対バーレーン見て、なんだかな、と。1,2位の違いが存在しないから、消化試合そのもの。つまんないな、と。バーレーンと日本が戦ってもワクワクしないのだ。アウェイでフバイルに1点取られるより、ビジャに4点取られるような試合の方がワクワクする。フィジカルは強いかもしれないが、中東のサッカーは見ていてつまらない。いっそ、ロシアの隣ってことで、UEFAに入れてもらえないだろうか(二度とワールドカップには出られないかもしれないが)。
そんなわけで、先週読んだ本はこの4冊。カート・ヴォネガットは本庄からの帰りの電車の中で読んだ。自転車旅は不調だったけれど、車窓を流れる景色を横目に、適度な疲労の中の読書は快適だった。
カート・ヴォネガット「国のない男」 NHK出版
自国の歴史をおとしめて考えることを自虐史観というらしい。しかし、およそ知性なるものを多少は持ち合わせている人間なら、自国の歴史に点在する汚点に気づかないはずがない。気づかない人間は、気づかないふりをしているのか、それとも本当にバカなのか、そのどちらかだ。
考えてみればいい。たとえばフランス。あの国を地上の楽園と考えるだろうか? アメリカ合衆国。あれを人類の理想郷と考えるだろうか?
日本だって同じことだ。悪いことだってさんざやったさ、そりゃ。
そういう知性の働きを自虐というのなら、さしずめカート・ヴォネガットは自虐のアメリカチャンピオンだろう。
「ところで、マルクスがそう書いたとき(「宗教はアヘンだ」)、われわれアメリカ人はまだ奴隷を解放していなかった。当時、慈悲深い神の目には、いったいどちらが喜ばしいものに映っただろう。カール・マルクスか? アメリカ合衆国か?」
彼が大切にした思いやりとユーモアは21世紀においてますます重要性を増していると思うのだが、そのどちらもがジョージ・ブッシュに著しく欠如していることを隣国人として非常に残念に思う(ま、それが日本の政治家にあるかどうかはおいといて)。
鈴木忠「クマムシ?!」 岩波書店
緩歩動物門には真クマムシ綱、異クマムシ綱、中クマムシ綱の3つの綱があるのだが、このうち中クマムシ綱は謎のクマムシだ。1937年雲仙の温泉でドイツ人のラームが発見したものが唯一の中クマムシで、その標本も今は残っていない。
という知識が人生においてどんな役に立つかは知らない。しかし、クマムシという生き物は実に興味深いではないか。
著者のクマムシに対する愛情もまた楽しい。
とにかくクマムシというものを知らない方は、ネットで検索してみて下さい。きっと、「おお、こんな生き物が!」と思うはず。
奥泉光「ノヴァーリスの引用」 新潮社
推理すればするほど錯綜する石塚の死。ミステリーのような、ファンタジーのような、そしてホラーの体を成しつつ、現代におけるイエスの甦りのシミュレーション。石塚=聖痕を持つ魚=イエス(ローマでのキリスト教禁教時、イエスは魚として描かれていた)。
すごい面白い。響きが幾重にも重なり、オルガンを強奏したときのようなゴシック感に溢れた小説。
考えてみれば、聖人と呼ばれる人たちは、現代の表現で言えばKYの極致。共同体にとって危険であり、さぞ受け入れがたい存在であったことだろう。
藤巻一保 「真言立川流」 学研
とある多摩地方の山中で暮らす三毒和尚のところに、狐について話を聞かせてくださいと訪れた戯作者水骨さん。頼み込んでようやく7夜にわたって、話を聞かせてもらうことになったのだが………。
という枠組みで語られる7つの狐の変奏曲。初夜「髑髏本尊」に始まり、二夜「ダキニ天」(本では漢字だが、変換できず)、三夜「如意宝珠」、四夜「仏舎利」、五夜「真言立川流」、六夜「金輪聖王」、そして七夜「北斗七星」と狐を巡る話はこんなにも豊かな変奏を奏でるのである。
狐は単なる動物ではない。古くから死霊や祖霊の化身と見なされたり、その予知能力を期待されたり、また、食の神として祀られたり、荼枳尼天と習合したり、と非常に幅の広い性質を持っていた。
そうした幅の広さが、中世神道の文脈の中で、さまざまなものと習合し、大いなる現世利益の神として君臨するにいたったのだ。たとえば、両部神道が胎蔵界、金剛界曼荼羅を用いることによって、伊勢神宮の内宮・外宮が車輪の両輪のようなものであることを主張したことは、以前ご紹介した山本ひろ子の「中世神話」に描かれていたが、それによって、狐とつながるウケモチ神であった外宮の豊宇気大神が大日如来を仲立ちに天照大神の別の表れとして存在することになる。つまり、狐=天照大神というストーリーが誕生するのだ。そうした狐=XXXという等号はいたるところに見られ(そうした無茶が中世神話の面白さでもあるのだが)、狐=荼枳尼天はほとんどあまねく存在と化していく様が読むに連れあきらかになっていく。
さらにこの本の優れているところは、立川流の根本を比喩として捉えている点である。どうしてもおどろおどろしいセックス教団としてのイメージがつきものの立川流であるが、そんなことはない、かなり意義深い教義であることがわかる。
まあ、聞き手役(水骨さん)が読者のための啓蒙係になってしまうのは、仕方がないところだろうが、それまでちゃんと受け答えしといて、真言宗の基本である「理趣経」知りませんなんてこたあないだろう、とツッコミどこもそこはかとなく。