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ギュスターブ・モロー展(1)

2005年10月15日 16時49分28秒 | 読書
 ぼくが一番好きな作曲家は、たぶんドビュッシーだろうと思う。ラヴェルとともに「印象派」のレッテルを貼られることもあるが、ドビュッシーとラヴェルはまるで違う上に、ドビュッシーはそもそも印象派ですらないと思う。
 外的世界をその印象のまま描写しようとする意志などドビュッシーにはまるでなかったように思われる(多少「海」にはその傾向が見られなくもないけれども)。ドビュッシーは、目に見える世界よりも、むしろ目に見えない世界、それをサンボリックに表現した作曲家だ。
 そんなドビュッシーに大きく影響を与えた画家がギュスターブ・モロー。彼は言う、「私は神しか信じていない。手に触れるものも、目に見えるものも信じない。目に見えないもの、ただ感じるものだけを信じている」
 象徴主義、と呼ばれるものの本質であると思う(さまざまな象徴主義絵画の形態的特徴などについては、ホーフシュテッターの「象徴主義と世紀末芸術」(美術出版社)が詳しい)。
 さて、そんなわけでBunkamuraの「ギュスターブ・モロー展」。
 いくつか印象に残ったものをご紹介。
 「プロメテウス」
 これって、どうやったらより残酷な目に合わせられるだろう、という人間の想像力のすさまじさを感じさせる題材だと思う。山に縛り付けられ、毎日ハゲタカに肝臓をついばまれる苦痛を味わいながらも、不死だから再生してまた次の日も次の日も、永遠に苦痛を味わい続ける……。やだね、そんな目にあいたくないもんだ。だけどこの絵は、まさについばまれているその瞬間を描きながらも、全体を包む青い色調の中で、生々しい苦痛の表情が何か聖なる崇高さへと調子を変えている。モローは、これに限らず、激しい苦しみよりも抑えられた苦しみや悲しみを描くことによって、崇高さを表現することが多い(描かれた苦しみの限界については、来週月曜日に)。
 「ガニュメデス」
 鷲に姿を変えたゼウスに誘拐される場面を描いているのだが、「プロメテウス」同様、誘拐現場に見られる荒々しい感じはなく、運命を甘受するかのごときガニュメデスの表情がいい。誘拐というよりは飛翔、それも魂の飛翔による天への回帰といった印象を受ける。しっかしエウロペもそうだけど、ほうぼうで女誘拐してるよね、ゼウスって。
コメント
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