毎日が観光

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佐助稲荷神社

2009年04月22日 11時53分51秒 | 観光

 田村麻呂、通称タムちゃんによって文明を知った東国。それ以降、東国は朝廷文化の土俵に乗せられ、その尺度で田舎者、遅れてる、などと評価され、東国もなんとかあか抜けた朝廷文化に近づこうと努力するようになった。
 そんなとき、「俺たち田舎者だけど、なにか?」と敢然と開き直っちゃった人たちがいた。俺たちは俺たち、朝廷の物差しで測るのはやめてくんないかな、と自我の芽生えた10代みたいなことを言い出す始末。こうなりゃ、次にやってくるのは自主・独立の精神。東国反抗期の代表が、つまり鎌倉幕府なのであった。
 幕府は徹底的に朝廷から独立し、また朝廷の価値観にはまらないよう努力した。
 義経も実朝も朝廷に取り込まれそうになると容赦なく殺してしまう。
 鎌倉幕府はなんとなく源氏の幕府のように考えられるけれど、源氏などあっという間にいなくなってしまう。平安末期から鎌倉にかけての戦いは、都会の平氏対田舎の平氏と言ってもいいんじゃないだろうか。田舎の平氏(北条氏)は都会に違和感を感じ、自分たちの価値観の上に独立を果たそうとした。
 たとえば「関西」という言葉。この言葉が最初に出てくるのは「吾妻鏡」なんだけれど、それまでの方角とはすべて京都から見たもの。西国は九州で、東国は関東地方から東北。それをこの「吾妻鏡」は関西という概念によって、東の鎌倉、西の京都と二つを並べようとした。
 東京なんか掘ってもせいぜい明治や江戸時代のものしか出てこないのに(それから縄文まで飛ぶ)、鎌倉には中世があった。ついそこにある中世に触れたくて、東京から多くの人が鎌倉に訪れる。自分たちの土地にはない歴史がそこにある。
 鎌倉以降、政権は東国が握った。栃木出身の足利氏、群馬出身の徳川氏(これについては源姓欲しさじゃないかとも考えられるけれど)。明治維新はずっと東国に握られていた覇権を西国が取り返そうとした抗争としてもとらえることができるんじゃないだろうか。

 伊豆に流されていた頼朝(佐殿)のもとにこの稲荷神が翁の姿で顕現し、挙兵を勧め、助けたことから佐助稲荷神社と名づけられたところ。そうした伝承以上に古い霊場であったと思う。この神社にある御塚などは、沖縄の御嶽と同じで、相当古い来歴がそこにあるはずだ。

 近くにある銭洗弁天。この洞窟の中で弁天さんを祀っている。
 鎌倉には洞窟のイメージがある。墓もやぐらと呼ばれる洞窟状のものが知られているし、江ノ島の弁天さんも洞窟の中にいる。洞窟のイメージは、だけど、晴々としたものではない。どちらかというと暗く、怖く、この世のものではないものと触れ合える場所。中世都市鎌倉に、そんな死の匂いを感じてしまうのは、ぼくだけだろうか。
コメント
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