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毎日が観光

カメラを持って街を歩けば、自分の街だって観光旅行。毎日が観光です。

志らくのピンpartⅢ

2005年08月01日 22時35分38秒 | 読書
 「いっぱいのお運びで、とくに男性の方は数々の誘惑にもめげずにここまでたどり着いて下さって、ありがとうございました」という挨拶通り、池袋文芸座は風俗街のど真ん中にある。高校生の時、文芸座に映画を見に行った帰り、「遊ぼうよ」とおかまさんに思いっきり腕をつかまれたこともある。ル・ピリエで見た多くの映画がぼくの血肉だ。
 さて、そんなおセンチな昔話はさておきつ。
 志らくは池袋でシネマ落語を、新橋でネタおろしの古典落語を1ヶ月交互に行っており(9月は新橋で「浮世床」「千両みかん」「御神酒徳利」の3本の予定)、ほかの活動と合わせ、かなり精力的に動き回っているように思う。それだけやりたいことがたくさんある、今勢いを強く感じる落語家だ。
 今回は「野ざらし」「妾馬」と2つ古典をやって、シネマ落語「ダイ・ハード」。実はこれ字として読んでしまってたのだが、それでも面白かった。とくに前2つの噺とうまく関連させて3つを語っているところなど、ストーリーテーラーとしてもうならされた。
 もちろん爆笑の渦(なんだが、映画館って、反響がないから笑いの引きが早いんだ)。
 会場は男女比半々か、ちょい女性の方が多い感じで、全席満員。
 ちなみに次回のシネマ落語は「オーメン」。なんで、こんなに落語に向かないようなものにチャレンジしたがるのか。楽しみ。
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京都旅行4 鞍馬3

2005年08月01日 17時25分25秒 | 観光

 鬼には狼男と同じ面がある。共同体から排除され、その支配下にないもの(鉄輪の女のような鬼もあるし、それが日本語の「鬼」すべてを表すものでないことは十二分に理解した上で)。つまり士農工商に入らない人々。
 士農工商という言葉は江戸時代に作られた言葉ではない。謡曲「善知鳥」で、猟師は「士農工商の家にも生まれず、または琴棊書画をたしなむ身ともならず」、と、殺生をして地獄の苦しみを受ける理由を説明する。そして僧に蓑笠を手向けてくれ、と頼む。
 「日本書紀」で朝倉山から斉明天皇の葬儀を覗いた鬼が付けていたのが蓑笠。今でもなまはげに見られるように「蓑笠」は鬼(要するに共同体の外からはるばるやってくるマレビト)の象徴である。士農工商の家に生まれる、というのは苦しかろうがなんであろうが、とりあえずは支配体制の内側に存在することを意味する。この猟師はそこに生まれなかった。鬼である。だから蓑笠を手向けてくれ、と頼む。
 一方、鬼一法眼であるが、彼は一条戻橋近くに住む陰陽師集団の一人だと言う。「一条戻橋」「陰陽師」と言えば、安倍晴明。彼にこんな話がある。人形を作って働かせていたのだが(式神)、昼動き、夜うち倒れる姿を清明の妻が見つけ、気味悪がるようになってしまう。で、仕方なくこの人形を戻橋の下に捨てたところ、人間の気が残ったのか、宮中に通い、そこの女官をはらませてしまう。この名も姓もない子が捨てられ、となる、と。
 鬼一法眼は、まさにこの系列に属する。「彼ら都市の陰陽師たちが、鬼の末裔を称する山の修験者たちとちがって、川の近くに住んでいたからだとみる。異界としての山に住む鬼だけでなく、都市の境界、逢魔の場としての橋に鬼があらわれるようになったころ、「もの」は「おに」に転じたのであろう。そして、山人が畏怖以外に蔑視・差別の対象となったように、橋の下のも、一般人からは蔑視・差別の対象とみられ、「おに」といわれたのである」(大和岩雄「鬼と天皇」)
 蔑視され、鬼とされた下級の陰陽師集団の一員である、鬼一法眼。鞍馬の持つまた別の面がそこに現れているような気がした。

 (写真は魔王の滝)
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蕎麦吉里童心舎

2005年08月01日 12時41分41秒 | 食べ物


 お店は田町と西日暮里の間、冠新道のはずれにあります。
 せいろ(500円)を頼みました。十割そばと二八せいろ、両方あるんですが、ぼくは食感から二八の方が好み(決してケチってるわけでは…)。
 この時期にしてはちゃんと蕎麦独特の甘みが感じられるおいしい蕎麦でした。しなやかなコシがあり、ぷちぷちっいう感じよりも、もう少しもちっとした食感。これはこれで、なかなか。
 特筆すべきはそば湯。いや、たぶんなにかの関係で今回だけだったのかもしれないけれど(だって、何回か行ってるけど、こんなの初めて)、湯桶の中でそばがきができていました。濃厚きわまりなし(もしかしたら12時前口開けだったから、そば湯が薄いので、湯桶に直接打ち粉をいれたのかもしれない…)。
 結局せいろを2枚ずつ食べて、たっぷりのそばがきを楽しんで、満腹・満足いたしました。
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京都旅行3 鞍馬2

2005年08月01日 09時23分52秒 | 観光

 吉鞍社からさらに登ると鬼一法眼社がある。鬼一法眼。文楽や歌舞伎でおなじみの人物。六韜という兵法の秘蔵本を持ち、その六巻(文、武、龍、虎、豹、犬)のうち、虎の巻を義経に伝授(いや、義経が娘たぶらかして…)した、という。ま、元がフィクションの「義経伝」なので真贋を問うても意味はない。
 しかし鬼一法眼は、鬼である。少なくとも鬼、と考えられていたのだ。
 ぼくは昔から鬼に心ひかれていた。日本の鬼がヨーロッパ中世における狼男と酷似していることに驚いたことがあった。ヨーロッパにおける狼男はなんらかの原因で共同体から排除された人間のことだ。森に住み、自活しなければならない。
 ちょっと脱線するけれども、たとえば「赤ずきんちゃん」という話を知らない人はいないだろう。森に住むお婆さんのところに通う赤ずきんちゃん。森に住むオオカミに襲われて殺されてしまう。ね、違う意味がわいてくるでしょ。お婆さんも、なんだって、そんなオオカミの住む森にいるのだろうか、と。つまりこの「赤ずきんちゃん」という話は、オオカミとされた男に襲われ殺された赤ずきんちゃん、姥捨ての風習で捨てられたお婆さんを思いやり、食べ物を運んだ赤ずきんちゃんのお話なのだ。

 この項つづく
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