中島病院旧本館

2010-05-28 07:15:00 | 岡山・広島・山口


 名医を故郷に引きとめる為に贈られた病院建築(大正6年築 1917)。 津山で医師の長男として生まれた中島琢之氏は、東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)を卒業し都内で内科医として活躍、その後『故郷に名医を』との熱望に応えて津山に帰り中島病院を開設しました。 この地域では大卒の医学士の病院は初めてであり多くの患者が詰めかけましたが、琢之氏は東京への未練(研究の為)が断ち切れず、また地元の医学界とも反りが合わなかった事から僅か1、2年後には『津山を出る』と周囲にもらすようになったといいます。 これに慌てた地元の名士達、特に友人であり銀行家であった妹尾順平氏(妹尾銀行頭取)は一計を案じ、自らが先頭に立って資金を調達し半ば強引に建ててしまったのがこの建物でした。 レントゲン室(撤去済)まで備えた最新鋭の病院を見ながら琢之氏は『これで東京へ帰れなくなった』と冗談交じりに嘆いたというエピソードが伝わっています。  岡山県津山市田町122  10年04月下旬
 
 

 ウロコ状のドーム屋根の上にはランタン。 この建物の見せ場の一つ。


 アーチ窓の上には要石のような装飾。


 建物の主、中島琢之先生の胸像。


 1階の窓。


 コリント式(?)のオーダー




 2階の窓上。 コーニスはアルファベットのHとOが連続するようなデザイン。 


 屋根には飾りの付いた煙突も載っています。




 現在の名称は「城西浪漫館」。 1階はカフェ、1・2階とも見学可能。 


 棟梁は旧妹尾銀行(津山洋学資料館)などを手掛けた池田豊太郎。 津山の民間人で最初に洋服を着たハイカラ棟梁だったという。


 ※参考 『岡山の明治洋風建築』 1977
     『岡山ハイカラ建築の旅』 1998
     『近代化遺産 ろまん紀行 西日本編』 2003
     『岡山県の近代化遺産』 2005


最新の画像もっと見る

1 コメント

コメントを投稿