坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

歎異抄第11章後半

2013年06月04日 | 坊主の家計簿
※ 表題 「念仏の僧伽」

※ 本文

 つぎにみずからのはからいをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、もうすところの念仏をも自行になすなり。このひとは、名号の不思議をも、また信ぜざるなり。信ぜざれども、辺地懈慢疑城胎宮にも往生して、果遂の願のゆえに、ついに報土に生ずるは、名号不思議のちからなり。これすなわち、誓願不思議のゆえなれば、ただひとつなるべし。

※現代語訳(朝日新聞出版『現代語 歎異抄(親鸞仏教センター訳・解説)』)

 次に、自分自身の思慮・分別をさしはさんで、善悪の行為について、これは往生のためのたすけとなる善い行為、これは往生のために妨げとなる悪い行為と、ふたつに分けて考えるのは、思慮を超えた本願のはたらきにすべてをまかせないで、自分のこころで往生のための善行をはげみ、南無阿弥陀仏を称えることも自己満足のための行為にしてしまうことである。このひとは、阿弥陀の名号の思慮・分別を超えたはたらきをも、また信じていないのである。
 しかし、たとえ信じていなくとも、方便化土(仮りの救い)に摂めとって、真実の浄土に必ず生まれさせずにはおかないという願いによって、究極的に真実の浄土に往けるのは、阿弥陀の名号の不思議な力のはたらきなのである。これは、そのまま思慮を超えた阿弥陀の本願の不思議なはたらきであるから、誓願と名号とはまったくひとつなのである。

※ 語意・語註(東本願寺出版部『歎異抄』)

(一) 自行…自分の力をたよってはげむ努力

(二) 辺地懈慢疑城胎宮…辺地とは、真実の浄土のほとり。懈慢とは、怠惰の心で、幸福の実現を求めている世界。疑城・胎宮は、仏智のはたらきに心暗い人が生まれるとされる世界で、実は仏法に遇えない様を表わしている。いずれも本願を疑う心のままに、しかも浄土に生まれたいという心によって願われている世界。(これを真実報土に対して方便化土という。)

(三) 果遂の願…救い遂げずにはおかないという如来の誓い。念仏しながら自力の心を離れ得ない者をも、必ず真実の浄土に転入させようと誓う本願。四十八願中の第二十番目の願。



(二十願

【わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生まれたいと願うなら、その願いをきっと果たしとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。】(本願寺出版社『浄土三部経・現代語版』より)

※ 関連語句

(一) 信不具足・聞不具足(?)

【また言わく、善男子、信に二種あり。一つには信、二つには求なり。かくのごときの人、また信ありといえども、推求にあたわざる、このゆえに名づけて「信不具足」とす。信にまた二種あり、一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞より生じて、思より生ぜず、このゆえに名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには道あることを信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて「信不具足」とす。また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏・法・僧ありと言わん、これを信正と名づく。因果なく、三宝の性、異なりと言いて、もろもろの邪語富闌那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏・法・僧宝を信ずといえども、三宝の同一性相を信ぜず。因果を信ずといえども得者を信ぜず。このゆえに名づけて「信不具足」とす。この人、不具足の信を成就す、と。】
(352頁)

【いかなるをか名づけて「聞不具足」とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じて未だ六部を信ぜず、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受持すといえども、読誦にあたわずして他のために解説するは、利益するところなけん、このゆえに名づけて「聞不具足」とす。またこの六部の経を受け已りて、論議のためのゆえに、勝他のためのゆえに、利養のためのゆえに、諸有のためのゆえに、持読誦説せん。このゆえに名づけて「聞不具足」とす、と。】(353頁)

【この二つの不具足の違いは、本人に「不十分である」ことの自覚があるかないかの違いではないかと思います。 聞不具足も信不具足も同じ不具足でありながら、信不具足の場合は、本人自身に確信とか信念の感覚が伴っていない。「紙一重のところがはっきりしない」と悩んでいるというような話を聞きます。「まだ私は信心がはっきりしていない、こんな念仏ではだめなのでしょうか」というような形で、自分で自分がだめであると決め付けてしまうわけです。これは自分の信心はまだ不充分であるという自覚がある。自覚された不具足ですね。
 ところが聞不具足の場合は、十二部経のうち六部だけを信じて、残りの六部は信じない。「信ぜず」というのは無視したり捨ててしまうということです。つまり半分しか読んでいないし信じていないにもかかわらず、不充分な知識と領解で講釈をたれ始める。この人は自分では仏教を充分に理解したという何らかの確信を持っているわけでしょう。確信がなければそんなことはできません。「仏教とはこんなものだ」と勝手に合点して、相手を言い負かすためとか地位や身分を得るために、あるいは飯の種にするためにその不充分な知識を利用するあり方ですね。自分が不充分であるということに対してまったく無自覚である。これが聞不具足ではないかと思います。
 (中略)
 信不具足の場合は、不充分であるという意識を持っているわけですから、道を求める歩みは終わることはありません。求め続けるということが止まってしまわない。ところが聞不具足の場合は、「これでわかった。充分だ」という、ある種の確信、あるいは自信を持ってしまうわけですから、当人の中ではそれ以上道を求める必要がなくなってしまう。仏道においては、こういう確信を持ってしまった状態が一番やっかいです。】
(藤場俊基『親鸞の教行信証を読み解く』274~275頁より)

【そういう「正しい信心」の意識は、時として非常に皮肉な結果を生み出すことがあります。排除しないということを根本原理とするのが浄土教の信仰であるのに、それを絶対化すると、逆に極端な排除の原理になってしまうわけです。「正しい信心」があるかないかという二者択一でこの世の問題をすべて割り切ってしまうからです。】
(藤場俊基『親鸞の教行信証を読み解く』285頁より)

【回心とは一種の「真理体験」ですから、当然ながら「私は正しい信に達した」という意識を生み出します。本物感覚ですね。その正しさの確信が作り出す執着がやっかいな状態を生み出していくわけです。】
(藤場俊基『親鸞の教行信証を読み解く』294頁)

(二) 三願転入(?)

【ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思義往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、特にこれを頂戴するなり。】(356~357頁より)
【「方便の真門」ではだめだという意識を持っている限り、三願を立てる必要性は出てきません。回心は重要な信仰体験です。私はそのことを否定はしません。それをことわった上で、誤解を招くかも知れませんがあえて言います、「回心にこだわる意識こそが仏智に対する疑惑である」と。「回心した」というこだわりも、「してない」というこだわりも同罪です。
 回心しようがしまいが、「私の念仏」と言った時にはすべて二十願の念仏なのです。そして私たちの口から出てくる念仏は、回心体験の有無にかかわらず、第二十願の念仏以外の何ものでもない。だから、一心不乱に念仏する人に対して、「それではだめだ」と言うことができる資格のある人間はどこにもいないのです。私たちが「あんな念仏では助かるはずがない」というような信仰の真偽の判定者のまねごとをするのは明らかに弥陀の本願に対する越権行為です。それが仏智に対する疑惑です。「念仏の衆生を摂取して捨てず」と誓った阿弥陀如来は、絶対に「自力の念仏ではだめだ」とは言わない。だからこそ安心して本願をたのむことができるのです。】(藤場俊基『親鸞の教行信証を読み解く』315~316頁より)
※ 所感

【藤井 研修院での学びを経て、芽が出て来られた方が、修了したら残念ながらそこで終わってしまう。三つのサイクル(犬伏註。聞法・学習・発表)が続かないと、これは懈慢界ですね。怠けてしまう。多くの方が研修院を出られましたが、その後の地道な聞法・学習・発表の生活が続けられているかどうか。
(中略)
 私自身、長く懈慢界に落ち込んでいたということがあり、今も常に落ち込んでいく。それを、よき友に引っ張り出され、立ち上がらされて、自分が懈慢であった事に気づかされます。果し遂げんとする果遂の働きが、私にとっては研修院であったわけです。】
(藤井善隆先生 南御堂・第612号より)

 課題を聞いてから、ずーーーと忙しく、というのは嘘であって、確かに報恩講や仕事、他の課題等で忙しかった事は事実であるが、それでも、友達と飲んだくれて朝帰りしたり、テレビをボケーっと観たり、課題とは全く関係のない八百数十頁の小説を読んだりしているヒマはあった。にも関わらず、この課題は殆ど放ったらかし。前日の夜に焦ってやっている。

【「懈慢」は、「おこたる。なまける。やるべきことをやらない。」、今風に言えば怠慢ですね。安田先生はこれを「娑婆のことに駆け回って、忙しそうにしているのが懈慢である」とおっしゃいます。怠慢というとブラブラ暇そうにしていることかと思うと、そうではなく娑婆の出来事にふり回されて忙しく動き回っているのが懈慢であると。忙しくしているために、道を求める心を忘れているのではないか。安田先生は、「懈慢とは菩提心の停滞である」と言おうとされているのだと思います。】
(藤場俊基『親鸞の教行信証を読み解く』74頁より)

 教学研修院に通っているが故に、浄土の僧伽に属しているが故に、課題を与えて頂ける。ある先生より「犬伏、研修院も後1年半しかないねんぞ」と、数ヶ月前に指摘された。研修院生であるにも関わらず、研修院に身を入れていない私を指摘された。
 今の班ではこれが最後の発表になる。殆ど藤場先生の本一冊でやってしまった事で明らかな様に、他のテキストも殆ど読んでいない。自分自身でも納得出来るものではない。懈慢、そのものである。「それでも過去の蓄積があるし…」と、誇ってしまう私がいる。そこで満足してしまう私がいる。疑城胎宮である。私の問題になって居ない。「今回の事を反省して、では次から」と思ったりもするが、まあ、変わらんだろう。多少マシになるかも知れないが、もっと酷くなるかも知れない。
 そんな事よりも、

【場によって人は育ちます。本願によって開かれた場ならば、自然に本願に促され、懈慢界を破って育つものです。】(藤井善隆先生 南御堂・第612号より)

 という場に、懈慢のまま、グウタラな生活のままであっても、念仏の僧伽の場に参加して行こうと思う。幸いな事に、そういう先輩達の姿、「そのままの姿」で念仏の僧伽に参加なされている姿も見せて頂く御縁もあったし。というか、それでなければ大谷派教団を選んでなかったが。