坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

2歳児と中年のイヤイヤ

2011年08月02日 | 坊主の家計簿
 昨日は娘と一日中遊ぶ。
 え~。。。「夏休みの行楽地は大変だ!!!」と、当り前の事を叫んでみたりする。

 早朝(私的には)に一度起きてママに「漁港の朝市に行こう」と言ったら却下される。却下されたので「ほな、どっか探せ」と私は二度寝。
 起きるとママと娘がお出かけモードで「天保山に行く」なんぞと言っている。何やら海遊館の隣にある建物(名前忘れた)に『プチ室内動物園→動物触れまっせ』があったり、『プチ室内遊園地』があったりするらしい。ネットで探したらしい。
 電車でお出かけ。娘はベビーカーへ。「テメーベビーカーを嫌がってたのと違うんけ!」なんだが、最近は『乗り物』として楽しいみたい。まあ、「私だって歩けるもん!」ブームが過ぎ去ったのだろう。
 天保山の『なんとか』っちゅう所について昼時だったし、朝から何も食べていない私はお腹ペコペコ。娘も腹が減っているだろう。なので『乳幼児と一緒に御飯を食べるにはフードコートが一番』と、フードコートを一覧して、空席を探すが、見事にない。考える事はみんな同じであって、子ども連れの家族で一杯の奪い合い。
 他の店舗も探している間に、娘、寝る。ママが「この間にメシを」というので、気に入った店舗でお昼御飯。
 その後も娘の昼寝は続く。なので、諸々の店舗を散策してたら、娘、復活。娘の御飯タイムが終わって、娘、フル活動。散々走る回るし、挙げ句には天保山に初登山をして、初渡し船(つーか、船自体初めてか)に乗って対岸の桜島に行ったら、そこから駅までの距離、まあ、数百メートルなんだが、自分のベビーカーを押して歩いてた。
 帰宅しても「パパ!」と、「すまん。。。パパは疲れた中年やねん」と体力的について行けないにも関わらず、「パパ!」と。

 疲れ果てて、今日は爆睡。

 8月は基本、お参りはお盆の一週間にまとめているし、今日は他から依頼の仕事もなく、外出予定もなく、寺のfacebookページ作り。
 大分先にfacebookを始めてた友人のfacebookページに使っているアプリなんぞを先日聞いたのだが、以前は難しいアプリしかなかったらしく、諦めて自分で探して来たアプリで制作。いや、英語のアプリは解りまへん。
 数日前に作ったのも「辞め」で削除して、ボチボチと作業。結局、寺の通信用の外部ブログを用意して、そこへのリンクの形にした。
 なので、新しいブログの設定をしたり、新しいアプリの導入をしたりしてたら、ママが帰って来て、娘も帰って来る。
 娘が帰って来るとパパとしての仕事。つーか、娘と遊びたいので仕事を放ったらかしにして、遊ぶ&一緒に御飯。
 晩御飯を一緒に食べてた後、今日はPLの花火大会の日なので近くの河川敷まで家族3人で見に行く。最初は興味なかった娘も、さすがにPL花火のクライマックスの空の色が一面変わるのを見て「きれい」と。娘にとって初花火大会なんだが、次回は近くで見れるのにしよう。

 帰宅して、娘は出かける前まで興味があったベネッセから送られて来た自分用のオモチャに興味津々。夜中の作業(さっきまでやってました)に向けて「パパ、しんどいよぉ。。。」と横になっていたのだが、お構いなし状態で「パパ!」と。
 ママの指示で持って来た漫画形式の冊子があった。タイトルは『2歳児は何故イヤというのか』みたいなの。 
 少し読む。
 結論。2歳児も『大人』も「イヤ」というのは一緒。具体例が違うだけの話。
 条件的に私と娘を比べるならば、生きて来た環境(年数も含めた条件)は違う。言葉は概念でもあるので、私に比較すると、そら「イヤ!」としか表現出来ないのが多々あるだけ。

 吉永小百合が

【吉永小百合さん「原発なくなって」 原爆詩朗読会で発言】
http://www.asahi.com/national/update/0731/OSK201107310058.html

 らしい。

 吉永小百合というと、中学の時に同級生やったヤツが「好きなタレントは誰か?」という時に「俺は吉永小百合」という言葉で個別認識を初めて出来た私だが、年寄り世代には大スターである。影響は大なんだろうが、それ以前に今や日本の大多数が「原発なんかイヤ!」なので、それ程の影響はないか。
 吉永小百合も、大多数の人達も、私も「原発はイヤ!」である。
 んが、「イヤ!」ならば、娘も同じだろう。つーか、『原発』という言葉(概念)を知らないだろうが。

 「イヤ!」だけでなく、多くの概念を知っている人も居ている。え~。。。その人達の多くが「あいつは原発推進派だ!」と呼ばれているのが解らないのだが、まあ、ヒステリー状態の「イヤ!」という感情を共感出来ないからなんだろう。
 けど、結局「イヤ!」だけでは世の中は動かん。「イヤ!」を形にして行く人が必要であって、「イヤ!」だけでなく、多くの情報(概念)を知って、「原発を辞めるとこういうデメリットもある」なんぞも踏まえた上で考えて行かなければならない問題なんだが、感情が先走り過ぎて「イヤ!」である。
 
 今日も

【福島第1原発:計測限界の10シーベルト 作業に影響懸念】
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110802k0000m040136000c.html?toprank=onehour

 で、ツイッター上に多くの「イヤ!」が流れて来たのだが、「イヤ!」というののは大事だが、「イヤ!」だけではアカン状態だったりする。
 それこそ、福島原発事故でも現場の人達が「イヤ!」と言った状況下になったらしいが、「逃げ出したい」という状況下になったらしいが、逃げ出してたら終わりだったりする。
 今も、まあ、考えられる想定範囲なんだろうが、非常に危険な数値が出ている。これを「イヤ!」だけなら、終わりである。

 ネットには書けないが、諸々の事情で私もかなり「イヤ!」で満腹状態であったりするのだが、残念というか、打たれ慣れたというか、「イヤ!」だけでは何にもならない事を体感しまくったし。「イヤ!」なら、どう対処して行くのか?がなければ生きて行けなかったわけだし。まあ、しゃーない。

 同じく「イヤ!」、あ、具体的には「危険だ!」であったりするのも、その人なりの環境だったのだろう。この『環境』の中には色んな言葉が入るのだろうが、そういう環境だったのだろう。だから「イヤ!」んんだろう。

 と、かなり偉そうに書いて居る。
 先日の学習会でも「出来ない人間を排除する罪と、出来ない罪と比較したらどちらの罪が大きいのか?」なんぞと言ったのだが、まあ、私は「イヤ!」と言うだけの人を小馬鹿にしているな。

 「吉永小百合さんもやっぱり干されるのか?」って、そんなワケはない。その背後にある神話がまず疑わしい。つーか、私は信じてないし。事実として証らかになれば話は別だが、事実になっていない。あくまでも本人の証言のみである。
 ちなみに坂井真紀も山本太郎と、どちらが早いか調べていないが、こんな発言を当初よりしている。

 http://twitter.com/#!/sakai_maki/status/51292036590088193

 しかしながら、本人より「仕事を干された」等の話は聞かない。坂井真紀のツイッターでは「こんな情報もリツイートするか」というのまで入っている。

 「イヤ!」が先に立って、感情が先に立ってしまってしまう事は仕方なく、ただ、それでは喧嘩(戦争)には負けるのだが。感情は士気だが、士気だけあってもどうしようもない。

 とは云え、ヒステリックで「あいつは推進派だ!」「御用学者だ!」というのも、それぞれの人生の中で「しゃーない」事であって、私は私なりの人生の中でしゃーない事である。
 私は私の人生を生きているので、その中で『他人』『他者』を認められないのは、私の責任で、私の罪である。
 と、パパは思う。
 きっと娘が「原発はイヤ!」なら、「パパも同じだよ。でも、じゃ、どうする?」なんぞと。
 あ、やっぱり偉そうやな。

 今日はツイッターで『#一番信用されなさそうなことを呟いた人が優勝』というので少し遊んでいたのだが、

【私は正しい 】
http://twitter.com/#!/erovows/status/98023066227048448

 という事で。