区役所で、『子どもなんとかなんとか』みたいなイベントがやっていたので出かける。私は所用があって後からの参加。会場につくと見渡す限り『親子連れ』ばかりであり、う~。。。なかなか探し出せない。「どこにおる?」とママに電話する。場所を教えて貰って、行く。娘、見っけ♪楽しく過ごす。んが、時間をみようとiPhone取りだす。「メールを受信しましたよ」よいう案内メッセージの後ろにいつもなら真っ暗なのだが、電話履歴画面が。。。「あれ?なんでや?」と焦ってチェック。どうやら、ポケットにiPhoneをしまう時に、電話の画面のままポケットにしまい込んだらしく、それが動いている間に、あちらこちらに電話をしていたみたいである。前にも一度経験した事があるのだが、あの時は一件だけだったのだが、今回はかなりの件数。え~。。。とりあえず、謝りまくりのお詫び電話をする。長い所では1分ぐらいの『無言がさごそ電話』だったし、多くは携帯電話に対してなので「こいつは何の嫌がらせ電話をしてきとるねん」だっただろうし。友人は「子どもに電話取られたのか?」だったので、少し気が楽になったのだが、え~。。。単なる迂闊だっただけ。
夜は学習会。発表は私。
レジメ。
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『仏教の源流――インド』 長尾雅人著(中公文庫)
第五章『根本仏教の教理』
二『特に縁起について』〈相対性の理論〉まで
①「縁起」の原語は、サンスクリットでプラティーティヤ・サムトバーダ(pratiitya-samutpaada)といい、これを縁起と訳したのは七世紀の玄奘です。この語は、文字通り「縁りて起る」と読めばよろしい。サンスクリットも「あるものに出会って」、あるいは「あるものが助けとなって、あるものが起る」というのが文字通りの意味です。(同著162ページより)
②経典の中で「縁起」が説明される時、次のようないい方がしばしされます。
これあれば、かれあり。これが生ずることによって、かれが生ずる。
これなければ、かれなし。これが滅することによって、かれが滅する。――
すなわち、無明を縁として行あり、行を縁として識あり、……生を縁にして老・死があり、
憂愁・苦悩が種々に生じる。
この文章には前後の二つの部分があり、前半は「これあれば、かれあり。……」の四句であり、後半「すなわち、無明を縁として行あり、……」以下が「十二支縁起」(旧訳の「十二因縁」)を内容としています。(中略)
縁起を説明する場合、この「十二支」のみが採り上げられて縁起として説明せられるようなことが、従来の仏教概論などにしばしば見かけられます。わが国でも外国でもそうです。事実、十二支は縁起であり、これだけを説いている経典も多いのです。しかし私は、右に引用した経典の前半に述べられている「これあれば、かれあり。……」等の四句が重要だと考えるものです。この四句こそ「縁起」の意味であり、縁起の原理を示すものであって、それに続く「すなわち、無明を縁にして……」云々の「十二支」の説明は、縁起の原理を具体的な場面に引き下げて説いたものと考えます。従って原理としての縁起そのものと十二支とは、一応、区別して考えてよいと思います。(同著162~163ページより)
③ここでは「これ」(此)と「かれ」(彼)に訳しましたが、原文ではこの両者は同じ代名詞なのです。ですから、この「これ」や「かれ」が何を指しているかは問題ではなく、問題は「……あれば、……あり」という点です。(中略)例えばわれわれは、東に対して西があるというのであって、西が独立してそれ自体としてあるのではありません。西というときは、必ず東が予想されています。東がなければ、西もありません。(同著163~164ページより)
④このようにして、縁起とは相対性の理論なのです。絶対的存在は、われわれの世界のどこにもなく、すべては相対的にのみあるということです。このような考え方が根底にあればこそ、「無我」という教説もあることが知られます。それは絶対的な実体がないということです。すべてが相対的であればこそ、「無常」ということも容易に理解出来ると思います。
経典に「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」ということがいわれています。あるいはその後の句が、「……法を見るものは仏を見る」といいかえられている場合もあります。これは非常に重要な句であって、縁起と法、あるいは縁起と法と仏(の悟り)とを同一視するもので、縁起がわかったことが、法(宇宙の方法、すべての存在、あるいは仏陀の教法、すべての教え)がわかったことであり、またそれが、仏陀の悟りがわかったことである、というものです。縁起はこのような重さのある語です。(同著165ページより。)
@以上がテキストよりの抜粋( 但しアンダーラインは犬伏)
テキストの中(アンダーライン部)に【縁起とは相対性の理論なのです。絶対的存在は、われわれの世界のどこにもなく、すべては相対的にのみあるということです。このような考え方が根底にあればこそ、「無我」という教説もあることが知られます。】とある。この事を少し考えてみたい。
※問題を出そう。耳四郎は救われているかどうか。耳四郎は法念上人の御時、平安末期の大泥棒で、ある夜屋敷に忍び込んで夜更けに泥棒を働こうと思って床下にもぐっておった。上で法然上人のお話が始まった。聞くともなしに聞いていると胸打つものがあって、とうとう縁側に出てきてお話を聞いてお弟子になった。大変な進展ぶりでよく念仏申しよくお話を聞いたのであるが、一生の間泥棒だけはやめられなかった。念仏しながら泥棒しておった。但し、後で返したという。この耳四郎は法然上人の教に救われ念仏に救われていたであろうかどうか。
念仏しながら泥棒をしたというのでは、大きな世界に出ているとは言えないと思う。「悪機の念仏するを見ては往生不定と疑う」。救われる筈がないではないかと思う。
耳四郎は七百年前の話ではあるが、この問いは非常に現代性を持っている。あの人は勤行を怠らず念仏し、人に優しく人の為に尽くして一生懸命精進している。あの人の念仏は本物で、あの人こそは本当の菩薩道を歩いていく人と思う。しかしこの人は長く聞いてはいるが、見るからに人相も悪く、やっていることもパッとしない。いつも子供を叱りつけて愚痴ばかり言って、時々念仏して喜んでいる。これじゃ駄目だろうと思う。自分の場合でもこのような私では駄目だろうと思う。私は時には喜ばないわけではないけれども、何となく心もすっきりしないし善いことも行えないし、これでは駄目だろうと思う。これをはからいという。他人事ではない。最後はここで行きづまる。宗教の問題というのは最後はこのはからいというところに問題がある。はからいなしというところに、第一章から第九章までのつづまりがある。親鸞聖人の教を一言で言ったら、はからいなしである。これを無義為義という。口伝鈔で頂くと、そこが非常によく出ている。
はからいとは本願を知らず、「本願の規模ここに失し自身の悪機たることを知らず」ということである。はからいとは、善い心、善い行いができなければ本当の念仏ではない、本当の信心ではない。悪い心即ち腹が立ち嫉妬心が起き冷たい心になる、悪い行いが私に続いている限り私は本物ではない、本当の信心、本当の念仏ではないと思う。これをはからいという。これが最後の問題である。「悪機の念仏するを見ては往生不定と疑う、本願の規模ここに失し、自身の悪機たるを知らざるになる」、これをはからいという。ここではいつも耳四郎をしっかり思い出すがよい。
善い心、善い行いができなければいけない、悪い心悪い行いである限り…というところには自身がわかっていない。そこではからうのである。善い心善い行い、悪い心悪い行い、即ち私の善悪が念仏の意味を左右している。自己が中心になっている。それをはからいという。自己に中心があるのではない。如来に中心がある。如来本願が中心ということがわかっていないのである。
如来の発願は如来の誓願である。人間の発想は善い者は救われ悪い者は救われない。如来の発願は南無阿弥陀仏である。私の善も悪も如来において南無阿弥陀仏である。如来のこころは大悲というのが一番当っている。大悲とは悲しみ呻きである。人間我々が小さな善悪に執われて、厚い厚い殼の中で、これではいけないいけないと言っている姿を如来は大悲して南無阿弥陀仏と叫びたもう。南無は帰れである、善悪に執われ人間の発想で右往左往している者に帰れと呼び続ける。阿弥陀仏は大いなるものわれ。大いなるものわれに帰れ、これを大悲という。南無阿弥陀仏という。これを大悲の本願という。これが如来の誓願である。この如来の願が我々に届いて我々の発願となるところに南無阿弥陀仏がある。この本願が私に届くと、善い心も善い行いも、悪い心も悪い行いも南無阿弥陀仏となる、善も悪も念仏となる。それをはからいなしという。
人間の発想自体がはからいである。人間の心で言うならば、善い方はいいが悪い方は困るのである。ところが如来の発想は善いも悪いも南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏は如来の大悲である。悲しみであり呻きである。それが本当に私に届いたならば(これを本願成就という)私の善も悪も、耳四郎のような私の心も、怒りも腹立ちも南無阿弥陀仏になる。それをはからいなしという。
はからいを無くしようとするのではない。はからいをなくしようとすれば、そのこと自体がはからいである。血で血を洗うというべきか、はからいを消そうとするところにはからいがある。はからいをなくそうとしてもなくならない。如来の本願にかえる。善いことも悪いこともこれが私の本体、南無阿弥陀仏と念仏する。これをはからいを超えるという。これが成り立つことが聖人の教の一番根本である。これを「ただ念仏」という。はからいをなくすのではない。「ただ念仏」である。これは何も考えないで無我夢中で念仏するのかというとそうではない。自らの実体にめざめ、本願を頂いて念仏する世界をいう。
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)
@『はからう』のは『我』である。宗祖親鸞聖人は法然上人に対する光明体験を
源空光明はなたしめ
門徒につねにみせしめき
賢哲愚夫もえらばれず
豪貴鄙賎もへだてなし
(高僧和讃)
と、和讃に示されておられる。繰り返しになるが、はからうのは『我』である。
故・竹中智秀先生は摂取不捨の事を「えらばず、きらわず、みすてず」と端的に語られておられた。それは同時に『えらび、きらい、みすてる』私自身の生活を課題化していく事である。
上記の細川巌先生の講義の続きを引用する。
※少しつけ足しになりますが、私が結婚して一年目、昭和二十一年、とても物の無い時代で御馳走などはできなかったが、結婚記念日に私共の先生を夕食にお招きしたことがある。その時先生は、「何事も因縁じゃのう」と感慨深く言われたが、「善い悪いで見たならばどんなよい相手でも夫婦として成り立たない。立派な人とは見えない。念仏していくということが大事だ」と言われた。その時はよく意味がわからなかった。ただ、善い悪いじゃいかんのだなということだけはわかった。先生は、夫婦は善い悪いでなしに、何事も因縁だなあ、本当に因縁によって結ばれている。善い悪いと人間の発想によってはからうのでなく、善いも悪いも南無阿弥陀仏となる。そういうことを結婚の心得として言われたのだと思いますね。今頃になってそう思う。さすがに先生はいい所を言われたなあと思う。我々は善い悪いになる。批判になる。思慮分別を押していく限り結局最後は、悪い妻を貰ったなということになる。善いのを貰ったとはなかなか思いません。そうでなしに仏法を本当に頂いて、善いも悪いも南無阿弥陀仏になるのだ。そこにはじめて念仏生活が成り立つのだということを言われたのであろう。
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)
@夫婦は『相対』である。
テキストでは【例えばわれわれは、東に対して西があるというのであって、西が独立してそれ自体としてあるのではありません。】である。
しかしながら、多くの生活実体としての夫婦、あるいは人間関係は自己中心にしか過ぎない。自己(我)から見た『相手』にしか過ぎない。東を中心にした西にしか過ぎない。それでは『縁起』にはなり得ない。縁起の世界に行きながらであっても、縁起の世界を無視しているのが実体ではないのか?
それが故に「あいつはああいうヤツやから」等と。「あいつは悪い事をしたから死刑になっても仕方がない」等と。
テキストに戻る。
【 経典に「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」ということがいわれています。あるいはその後の句が、「……法を見るものは仏を見る」といいかえられている場合もあります。】
とある。
もう一度、細川巌先生の歎異抄講読より
※加賀乙彦という人の書物に、あるカトリックの修道女が非常に徳を積んでみんなに優しくしたから、神様がそれをほめて御褒美を下さることになった。修道女は言った。「神様、私の心を見せて下さい」。神様は「それだけは見せられない」と言われる。修道女は「それならもう何もいりません」と言うので、神様はやむを得ず修道女にその心を見せた。ところが彼女は卒倒し気が狂ってしまった。
我々はだんだん立派になり、よくなると思う。が、もし神様が見せて下さったら、即ち本当の正しい鏡を下さったら鏡に映るわが心は、真黒な欲と怒りと腹立ちの心である。驚いて卒倒し気が狂ったというのは実に深刻な話である。しかしいいところを言ってある。
鏡を持たされたところに私の転落がある。これを愚者悪人という。愚かな私、お粗末な私にめざめる。そこに、助けんと思召したちける本願の忝なさよと頂く、それを念仏という。その念仏において、私が善い悪いを考えて判断して念仏するのでもなく、私の思慮分別を積み上げて念仏するのでもなしに、本当に私が私に目がさめて南無阿弥陀仏となる、ところを無義という。はからいから出発して遂にはからいを超えたところに、正しい仏法の道理が成り立っているのである。
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)
※自己自身を知ることと、「如来ましますか」の問いに答え得ること、この二つは同じことなのである。自己自身を機といい、如来を法という。自己がわかることが如来がわかること、如来がわかることが自己を知ることである。法がわからなければ機もわからない。機がわからなければ法もわからない。私がどんな顔をしているかわかるためには鏡がなければならない。鏡が先か顔が先かというと、鏡の方が先である。電灯をつけるのに、スイッチを押すのと点灯するのとは同時であるが、しかしスイッチを押すのが先である。如来の本願が鏡である。それがよき人を通して私に鏡としで与えられた時に、自分自身がわかるようになっている。よき人の仰せが先で、私があとである。
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/koudoku/3/3_4.htmlより)
@『縁起』は、長い時を経て『縁起の世界』になった。例えば『倶会一処』など。それは釈尊が説かれた『縁起』からは変形しているのかも知れないが、『縁起の世界』に触れ、その世界から照らし出される自己(我)=機、すなわち諸法因縁生に背いて生きようとしている生活実体を照らし出される。
最後に、同朋大学学長・尾畑文正先生の縁起についてのエッセイ。
※「縁起」は仏教語の中で私たちに誤解されている言葉の筆頭です。例えば、朝一番のお茶に茶柱が立ったら縁起がいい。結婚祝は大安の午前中に持っていくと縁起がいい。病院にお見舞いに行くときは、鉢ものの花は根(寝)付いて縁起が悪いから切り花にするといい。などなど、数えたらきりがないほどです。 しかし、もともと縁起は、因縁生(いんねんしょう)とも縁生(えんしょう)ともいうように、全ての現象・事物は何一つそれ自体で成り立つものではなく、無数の関係(縁)によって生じていることを表すものです。だから、私たちが平生に、縁起がいいとか縁起が悪いとかと言っているのは、そういう存在の絶対的現実に対して、自分の都合に合うものは縁起がいいと言い、都合の合わないものは縁起が悪いと言っているということなのです。 それらは仏教でいう縁起の語を誤解して用いる使い方です。縁起とは、私の存在は、縁起として存在するのであって、私という一個の人間がそれだけで存在するのではなく、ありとあらゆるものとの繋がりの中で存在していることを表すものです。私たちの相互共存するいのちの事実を言い当てている言葉です。 このような縁起が指し示す豊かないのちの世界に目覚めるならば、同時多発テロ、それに続くアフガニスタンへの武力攻撃に象徴される戦争などが、いかに人間の縁起的な存在であることを無視し、断ち切るものであるかを知らされることでしょう。縁起はそうした私たちの閉鎖的、独断的な生き方を問う、仏陀が目覚めた真理の法なのです。
(月刊『同朋』2002年2月号より)
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テキストの本を読んだ後に、レジメをざっと読んでの話し合い。
え~と、何か感想を書こうかと思ったのだが、疲れた。。。
テンションが低い、つまり、自分を追い込む事無く書いたレジメ。記憶力が弱っているというか、まあ、『怠けている』という一言なんだろうが。
先日、え~。。。思い出せない。。。誰かが、あ、『やしきたかじん』や。つーか、『先日』じゃなくて、今日の昼間や。大阪ではブイブイいわしている『やしきたかじん』という、お笑い芸人&歌手&司会者&テレビ評論家のオッサンが、テレビに出て来る『ひな壇芸人』に関して、「メシは喰ったらクソになって出て来るが、あいつらはメシも喰わんとクソを出しとる。だから、そのうち枯れる」みたいな事を言ってはった。まあ、当然、『全てのひな壇芸人』に関しての事ではないのだろうが。
その話を聞いて、ドキッとする。
縁起説は元々は『苦』からの解放が根本。
日常生活の中で『苦』がないわけではない。
が、それが課題化されていない。『苦』は『苦』として「大変でっせ!」と、どこかに置いている。
当然、今回のレジメの『縁起』でも、「人間関係の中でも自己中心で相対になっていない」というのを中心に書いたつもりなんだが、どうも、ボケている。
こういうのを『はからい』という。
「ボケている」という事は、「本当の私はもっとしっかりしているはずである」という想定が先である。その、どこにもありもしない、私の脳内にしかない妄想が、現実に生きている私自身を苦しめる。
やしきたかじんの「そのうち枯れる」みたいなセリフに「ドキッと」するのは、単純に「売れなくなると困る」からである。だから、売れなくなる芸人の話にドキッとする。声自慢の次に来るのが法話自慢だったりするので。え~。。。レベルは低いですが、その他はもっとアウトなので。
故に「しっかりしないといけない」である。娑婆を生きて行くには。その事がクセになっていて、その事が仏道を歩む中にも混入している。それが故に、「最近、ボケとるのぉ。。。」になる。「学生の頃はこんな感じやなかったねんけどなぁ。。。」になる。
老!老!老!
と、老パンク。。。う~ん。。。イマイチか。。。
つーか、『老パンク』ならば、「老いる事がアカンのか!ファック!」なんだろうが、そこまで勇ましくもなれない。学生時代みたいに自分を問う厳しさもなく、「うにょ~」と。「うにょ~、疲れたよぉ~」と。「ボケとるよぉ~」と、日々、酔っぱらう。
それが私の生活実体。
うにょ、うにょ。
娘が泣いたので、寝よ。
夜は学習会。発表は私。
レジメ。
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『仏教の源流――インド』 長尾雅人著(中公文庫)
第五章『根本仏教の教理』
二『特に縁起について』〈相対性の理論〉まで
①「縁起」の原語は、サンスクリットでプラティーティヤ・サムトバーダ(pratiitya-samutpaada)といい、これを縁起と訳したのは七世紀の玄奘です。この語は、文字通り「縁りて起る」と読めばよろしい。サンスクリットも「あるものに出会って」、あるいは「あるものが助けとなって、あるものが起る」というのが文字通りの意味です。(同著162ページより)
②経典の中で「縁起」が説明される時、次のようないい方がしばしされます。
これあれば、かれあり。これが生ずることによって、かれが生ずる。
これなければ、かれなし。これが滅することによって、かれが滅する。――
すなわち、無明を縁として行あり、行を縁として識あり、……生を縁にして老・死があり、
憂愁・苦悩が種々に生じる。
この文章には前後の二つの部分があり、前半は「これあれば、かれあり。……」の四句であり、後半「すなわち、無明を縁として行あり、……」以下が「十二支縁起」(旧訳の「十二因縁」)を内容としています。(中略)
縁起を説明する場合、この「十二支」のみが採り上げられて縁起として説明せられるようなことが、従来の仏教概論などにしばしば見かけられます。わが国でも外国でもそうです。事実、十二支は縁起であり、これだけを説いている経典も多いのです。しかし私は、右に引用した経典の前半に述べられている「これあれば、かれあり。……」等の四句が重要だと考えるものです。この四句こそ「縁起」の意味であり、縁起の原理を示すものであって、それに続く「すなわち、無明を縁にして……」云々の「十二支」の説明は、縁起の原理を具体的な場面に引き下げて説いたものと考えます。従って原理としての縁起そのものと十二支とは、一応、区別して考えてよいと思います。(同著162~163ページより)
③ここでは「これ」(此)と「かれ」(彼)に訳しましたが、原文ではこの両者は同じ代名詞なのです。ですから、この「これ」や「かれ」が何を指しているかは問題ではなく、問題は「……あれば、……あり」という点です。(中略)例えばわれわれは、東に対して西があるというのであって、西が独立してそれ自体としてあるのではありません。西というときは、必ず東が予想されています。東がなければ、西もありません。(同著163~164ページより)
④このようにして、縁起とは相対性の理論なのです。絶対的存在は、われわれの世界のどこにもなく、すべては相対的にのみあるということです。このような考え方が根底にあればこそ、「無我」という教説もあることが知られます。それは絶対的な実体がないということです。すべてが相対的であればこそ、「無常」ということも容易に理解出来ると思います。
経典に「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」ということがいわれています。あるいはその後の句が、「……法を見るものは仏を見る」といいかえられている場合もあります。これは非常に重要な句であって、縁起と法、あるいは縁起と法と仏(の悟り)とを同一視するもので、縁起がわかったことが、法(宇宙の方法、すべての存在、あるいは仏陀の教法、すべての教え)がわかったことであり、またそれが、仏陀の悟りがわかったことである、というものです。縁起はこのような重さのある語です。(同著165ページより。)
@以上がテキストよりの抜粋( 但しアンダーラインは犬伏)
テキストの中(アンダーライン部)に【縁起とは相対性の理論なのです。絶対的存在は、われわれの世界のどこにもなく、すべては相対的にのみあるということです。このような考え方が根底にあればこそ、「無我」という教説もあることが知られます。】とある。この事を少し考えてみたい。
※問題を出そう。耳四郎は救われているかどうか。耳四郎は法念上人の御時、平安末期の大泥棒で、ある夜屋敷に忍び込んで夜更けに泥棒を働こうと思って床下にもぐっておった。上で法然上人のお話が始まった。聞くともなしに聞いていると胸打つものがあって、とうとう縁側に出てきてお話を聞いてお弟子になった。大変な進展ぶりでよく念仏申しよくお話を聞いたのであるが、一生の間泥棒だけはやめられなかった。念仏しながら泥棒しておった。但し、後で返したという。この耳四郎は法然上人の教に救われ念仏に救われていたであろうかどうか。
念仏しながら泥棒をしたというのでは、大きな世界に出ているとは言えないと思う。「悪機の念仏するを見ては往生不定と疑う」。救われる筈がないではないかと思う。
耳四郎は七百年前の話ではあるが、この問いは非常に現代性を持っている。あの人は勤行を怠らず念仏し、人に優しく人の為に尽くして一生懸命精進している。あの人の念仏は本物で、あの人こそは本当の菩薩道を歩いていく人と思う。しかしこの人は長く聞いてはいるが、見るからに人相も悪く、やっていることもパッとしない。いつも子供を叱りつけて愚痴ばかり言って、時々念仏して喜んでいる。これじゃ駄目だろうと思う。自分の場合でもこのような私では駄目だろうと思う。私は時には喜ばないわけではないけれども、何となく心もすっきりしないし善いことも行えないし、これでは駄目だろうと思う。これをはからいという。他人事ではない。最後はここで行きづまる。宗教の問題というのは最後はこのはからいというところに問題がある。はからいなしというところに、第一章から第九章までのつづまりがある。親鸞聖人の教を一言で言ったら、はからいなしである。これを無義為義という。口伝鈔で頂くと、そこが非常によく出ている。
はからいとは本願を知らず、「本願の規模ここに失し自身の悪機たることを知らず」ということである。はからいとは、善い心、善い行いができなければ本当の念仏ではない、本当の信心ではない。悪い心即ち腹が立ち嫉妬心が起き冷たい心になる、悪い行いが私に続いている限り私は本物ではない、本当の信心、本当の念仏ではないと思う。これをはからいという。これが最後の問題である。「悪機の念仏するを見ては往生不定と疑う、本願の規模ここに失し、自身の悪機たるを知らざるになる」、これをはからいという。ここではいつも耳四郎をしっかり思い出すがよい。
善い心、善い行いができなければいけない、悪い心悪い行いである限り…というところには自身がわかっていない。そこではからうのである。善い心善い行い、悪い心悪い行い、即ち私の善悪が念仏の意味を左右している。自己が中心になっている。それをはからいという。自己に中心があるのではない。如来に中心がある。如来本願が中心ということがわかっていないのである。
如来の発願は如来の誓願である。人間の発想は善い者は救われ悪い者は救われない。如来の発願は南無阿弥陀仏である。私の善も悪も如来において南無阿弥陀仏である。如来のこころは大悲というのが一番当っている。大悲とは悲しみ呻きである。人間我々が小さな善悪に執われて、厚い厚い殼の中で、これではいけないいけないと言っている姿を如来は大悲して南無阿弥陀仏と叫びたもう。南無は帰れである、善悪に執われ人間の発想で右往左往している者に帰れと呼び続ける。阿弥陀仏は大いなるものわれ。大いなるものわれに帰れ、これを大悲という。南無阿弥陀仏という。これを大悲の本願という。これが如来の誓願である。この如来の願が我々に届いて我々の発願となるところに南無阿弥陀仏がある。この本願が私に届くと、善い心も善い行いも、悪い心も悪い行いも南無阿弥陀仏となる、善も悪も念仏となる。それをはからいなしという。
人間の発想自体がはからいである。人間の心で言うならば、善い方はいいが悪い方は困るのである。ところが如来の発想は善いも悪いも南無阿弥陀仏である。南無阿弥陀仏は如来の大悲である。悲しみであり呻きである。それが本当に私に届いたならば(これを本願成就という)私の善も悪も、耳四郎のような私の心も、怒りも腹立ちも南無阿弥陀仏になる。それをはからいなしという。
はからいを無くしようとするのではない。はからいをなくしようとすれば、そのこと自体がはからいである。血で血を洗うというべきか、はからいを消そうとするところにはからいがある。はからいをなくそうとしてもなくならない。如来の本願にかえる。善いことも悪いこともこれが私の本体、南無阿弥陀仏と念仏する。これをはからいを超えるという。これが成り立つことが聖人の教の一番根本である。これを「ただ念仏」という。はからいをなくすのではない。「ただ念仏」である。これは何も考えないで無我夢中で念仏するのかというとそうではない。自らの実体にめざめ、本願を頂いて念仏する世界をいう。
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)
@『はからう』のは『我』である。宗祖親鸞聖人は法然上人に対する光明体験を
源空光明はなたしめ
門徒につねにみせしめき
賢哲愚夫もえらばれず
豪貴鄙賎もへだてなし
(高僧和讃)
と、和讃に示されておられる。繰り返しになるが、はからうのは『我』である。
故・竹中智秀先生は摂取不捨の事を「えらばず、きらわず、みすてず」と端的に語られておられた。それは同時に『えらび、きらい、みすてる』私自身の生活を課題化していく事である。
上記の細川巌先生の講義の続きを引用する。
※少しつけ足しになりますが、私が結婚して一年目、昭和二十一年、とても物の無い時代で御馳走などはできなかったが、結婚記念日に私共の先生を夕食にお招きしたことがある。その時先生は、「何事も因縁じゃのう」と感慨深く言われたが、「善い悪いで見たならばどんなよい相手でも夫婦として成り立たない。立派な人とは見えない。念仏していくということが大事だ」と言われた。その時はよく意味がわからなかった。ただ、善い悪いじゃいかんのだなということだけはわかった。先生は、夫婦は善い悪いでなしに、何事も因縁だなあ、本当に因縁によって結ばれている。善い悪いと人間の発想によってはからうのでなく、善いも悪いも南無阿弥陀仏となる。そういうことを結婚の心得として言われたのだと思いますね。今頃になってそう思う。さすがに先生はいい所を言われたなあと思う。我々は善い悪いになる。批判になる。思慮分別を押していく限り結局最後は、悪い妻を貰ったなということになる。善いのを貰ったとはなかなか思いません。そうでなしに仏法を本当に頂いて、善いも悪いも南無阿弥陀仏になるのだ。そこにはじめて念仏生活が成り立つのだということを言われたのであろう。
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)
@夫婦は『相対』である。
テキストでは【例えばわれわれは、東に対して西があるというのであって、西が独立してそれ自体としてあるのではありません。】である。
しかしながら、多くの生活実体としての夫婦、あるいは人間関係は自己中心にしか過ぎない。自己(我)から見た『相手』にしか過ぎない。東を中心にした西にしか過ぎない。それでは『縁起』にはなり得ない。縁起の世界に行きながらであっても、縁起の世界を無視しているのが実体ではないのか?
それが故に「あいつはああいうヤツやから」等と。「あいつは悪い事をしたから死刑になっても仕方がない」等と。
テキストに戻る。
【 経典に「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」ということがいわれています。あるいはその後の句が、「……法を見るものは仏を見る」といいかえられている場合もあります。】
とある。
もう一度、細川巌先生の歎異抄講読より
※加賀乙彦という人の書物に、あるカトリックの修道女が非常に徳を積んでみんなに優しくしたから、神様がそれをほめて御褒美を下さることになった。修道女は言った。「神様、私の心を見せて下さい」。神様は「それだけは見せられない」と言われる。修道女は「それならもう何もいりません」と言うので、神様はやむを得ず修道女にその心を見せた。ところが彼女は卒倒し気が狂ってしまった。
我々はだんだん立派になり、よくなると思う。が、もし神様が見せて下さったら、即ち本当の正しい鏡を下さったら鏡に映るわが心は、真黒な欲と怒りと腹立ちの心である。驚いて卒倒し気が狂ったというのは実に深刻な話である。しかしいいところを言ってある。
鏡を持たされたところに私の転落がある。これを愚者悪人という。愚かな私、お粗末な私にめざめる。そこに、助けんと思召したちける本願の忝なさよと頂く、それを念仏という。その念仏において、私が善い悪いを考えて判断して念仏するのでもなく、私の思慮分別を積み上げて念仏するのでもなしに、本当に私が私に目がさめて南無阿弥陀仏となる、ところを無義という。はからいから出発して遂にはからいを超えたところに、正しい仏法の道理が成り立っているのである。
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/10_Hakarai.htmより)
※自己自身を知ることと、「如来ましますか」の問いに答え得ること、この二つは同じことなのである。自己自身を機といい、如来を法という。自己がわかることが如来がわかること、如来がわかることが自己を知ることである。法がわからなければ機もわからない。機がわからなければ法もわからない。私がどんな顔をしているかわかるためには鏡がなければならない。鏡が先か顔が先かというと、鏡の方が先である。電灯をつけるのに、スイッチを押すのと点灯するのとは同時であるが、しかしスイッチを押すのが先である。如来の本願が鏡である。それがよき人を通して私に鏡としで与えられた時に、自分自身がわかるようになっている。よき人の仰せが先で、私があとである。
(細川巌先生『歎異抄講読』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/koudoku/3/3_4.htmlより)
@『縁起』は、長い時を経て『縁起の世界』になった。例えば『倶会一処』など。それは釈尊が説かれた『縁起』からは変形しているのかも知れないが、『縁起の世界』に触れ、その世界から照らし出される自己(我)=機、すなわち諸法因縁生に背いて生きようとしている生活実体を照らし出される。
最後に、同朋大学学長・尾畑文正先生の縁起についてのエッセイ。
※「縁起」は仏教語の中で私たちに誤解されている言葉の筆頭です。例えば、朝一番のお茶に茶柱が立ったら縁起がいい。結婚祝は大安の午前中に持っていくと縁起がいい。病院にお見舞いに行くときは、鉢ものの花は根(寝)付いて縁起が悪いから切り花にするといい。などなど、数えたらきりがないほどです。 しかし、もともと縁起は、因縁生(いんねんしょう)とも縁生(えんしょう)ともいうように、全ての現象・事物は何一つそれ自体で成り立つものではなく、無数の関係(縁)によって生じていることを表すものです。だから、私たちが平生に、縁起がいいとか縁起が悪いとかと言っているのは、そういう存在の絶対的現実に対して、自分の都合に合うものは縁起がいいと言い、都合の合わないものは縁起が悪いと言っているということなのです。 それらは仏教でいう縁起の語を誤解して用いる使い方です。縁起とは、私の存在は、縁起として存在するのであって、私という一個の人間がそれだけで存在するのではなく、ありとあらゆるものとの繋がりの中で存在していることを表すものです。私たちの相互共存するいのちの事実を言い当てている言葉です。 このような縁起が指し示す豊かないのちの世界に目覚めるならば、同時多発テロ、それに続くアフガニスタンへの武力攻撃に象徴される戦争などが、いかに人間の縁起的な存在であることを無視し、断ち切るものであるかを知らされることでしょう。縁起はそうした私たちの閉鎖的、独断的な生き方を問う、仏陀が目覚めた真理の法なのです。
(月刊『同朋』2002年2月号より)
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テキストの本を読んだ後に、レジメをざっと読んでの話し合い。
え~と、何か感想を書こうかと思ったのだが、疲れた。。。
テンションが低い、つまり、自分を追い込む事無く書いたレジメ。記憶力が弱っているというか、まあ、『怠けている』という一言なんだろうが。
先日、え~。。。思い出せない。。。誰かが、あ、『やしきたかじん』や。つーか、『先日』じゃなくて、今日の昼間や。大阪ではブイブイいわしている『やしきたかじん』という、お笑い芸人&歌手&司会者&テレビ評論家のオッサンが、テレビに出て来る『ひな壇芸人』に関して、「メシは喰ったらクソになって出て来るが、あいつらはメシも喰わんとクソを出しとる。だから、そのうち枯れる」みたいな事を言ってはった。まあ、当然、『全てのひな壇芸人』に関しての事ではないのだろうが。
その話を聞いて、ドキッとする。
縁起説は元々は『苦』からの解放が根本。
日常生活の中で『苦』がないわけではない。
が、それが課題化されていない。『苦』は『苦』として「大変でっせ!」と、どこかに置いている。
当然、今回のレジメの『縁起』でも、「人間関係の中でも自己中心で相対になっていない」というのを中心に書いたつもりなんだが、どうも、ボケている。
こういうのを『はからい』という。
「ボケている」という事は、「本当の私はもっとしっかりしているはずである」という想定が先である。その、どこにもありもしない、私の脳内にしかない妄想が、現実に生きている私自身を苦しめる。
やしきたかじんの「そのうち枯れる」みたいなセリフに「ドキッと」するのは、単純に「売れなくなると困る」からである。だから、売れなくなる芸人の話にドキッとする。声自慢の次に来るのが法話自慢だったりするので。え~。。。レベルは低いですが、その他はもっとアウトなので。
故に「しっかりしないといけない」である。娑婆を生きて行くには。その事がクセになっていて、その事が仏道を歩む中にも混入している。それが故に、「最近、ボケとるのぉ。。。」になる。「学生の頃はこんな感じやなかったねんけどなぁ。。。」になる。
老!老!老!
と、老パンク。。。う~ん。。。イマイチか。。。
つーか、『老パンク』ならば、「老いる事がアカンのか!ファック!」なんだろうが、そこまで勇ましくもなれない。学生時代みたいに自分を問う厳しさもなく、「うにょ~」と。「うにょ~、疲れたよぉ~」と。「ボケとるよぉ~」と、日々、酔っぱらう。
それが私の生活実体。
うにょ、うにょ。
娘が泣いたので、寝よ。