坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

戦争に反対しない人は非国民か?

2006年07月11日 | 坊主の家計簿
 7月11日
 
 雑費   散髪          2000円
 外食   らーめんキムチライス   714円
 食類   発泡酒          175円
      モロヘイヤ         98円
      マーガリン        158円
      納豆3           78円
      鮭3切れ         117円
 
 合計        3340円
 7月累計     22319円

 明後日が休みなので、明日の夜は飲みに行きたいのだ(またヘンリーライヴがない。。。)
 ので、今日は雑用かましまくりの一日。
 
 遅めの晩飯を報道ステーションを観ながら喰ってたら
 『好きな言葉は。。。警察』
 思わず喰ってた海老チャーハンを吐き出しそうになったやんけ。エエキャラしてまんな、あの放火をブログに書いてた娘さんは。

 『好きな言葉は。。。警察』
 で、思い出したのだが、今日、遅めの昼飯を喰ってたラーメン屋は、なにやらオ○ム真理教経営と間違われているらしい。まあ、美味いし別に何処がやっててもエエし、気にせえへんし。だいたいほぼ毎日買い物をしているスーパーの社長は、確か某広域暴力団の幹部だったはずやし。
 「へー」と思いつつトイレに貼ってあった誤解を説く為のチラシを観てたのだが、その文中に『公安当局』と云う言葉が出て来て、思わず「おい!」と。「お前ら、公安当局なんぞと云う言葉を使うから誤解されるんじゃ!」と、アンケートに書こうと思ったけど辞め。


 私は『男』である。小学5、6年担任の女教師松本から「女の腐ったような性格」と呼ばれたが、それでも『男』である。洗い物が終わった後に流しと桶を掃除する非常に男らしい『男』である。
 同様に日本人である。日本国籍を持って居るし、生まれも育ちも日本である。
 日本人は何をやっても日本人ではないのか?自分達が生まれた国の事を知らなくても日本人は日本人だ。自分達が生まれ育った国の文化を知らなくても日本人は日本人だ。日本人らしくなくても日本人は日本人だ。日本の歴史や文化に興味があるなら勝手に調べればイイ。


 しゃて、多分、今日のブログのタイトルにするであろう『戦争に反対しない人は非国民か?』。
 私は多分、同年代の大谷派僧侶の中では結構珍しい部類の生き方をしてきたのだろう。別に運動家が珍しくないし。解同だろうが、在日運動家だろうが、別に珍しくない。
 なので、「あの人は被差別に入って、被差別の人達と共に生きた」と云う言葉が、差別意識の現れ以外に聞こえない。「差別されているが故の温かさ」等と聞くと、「アホちゃうか?」としか思えない。「現実を見ろ!」と。
 同時にそれは『寺社会』という所、『寺族』と云う問題の現れでもあると感じる。『寺族』という壁を突破しようとする事の大事さ、精神から学ぶ事は多い。なので、私はそれに同調出来ない。同調してしまう事は私にとっては保守でしかない。

 このブログを読んでくれている先輩の中には読んだ事がある人も居ると思うが、私は卒業生の会報で『寺族』の批判をした事がある。当然『寺族』の問題はある。だからといって『在家』と云う『座』に甘んじて『批判されない場』として居る事はおかしい。それは『寺族』に対して失礼である。あくまでも自分の座を『正』としているだけの話である。

 デモや集会には気軽に参加出来るが、その事がハードル高い人達に対して「遅れている」だの「目覚めていない」だの、「問題意識の欠如」等という事は失礼だ。あくまでも自分の人生にとって社会問題に関わる事が出来ただけの話である。

 10年ぐらい前に辺見庸が以前にラジオで語っていたのだが、辺見庸は当時、「今の日本はまるで戦前のようだ」と。で、そこで辺見庸が注目していた一つで、私の中に残って居る問題提起にもなった言葉が
 「戦前の日本の文学者が決して洗脳されていたとは思えない」
 という言葉である。
 多分、今となっては、それは『時代であった』という言葉でカタがつくだろう。
 じゃあ、今の時代は?今は1900年代ではない。情報が溢れ、また、戦後の民主主義教育をくぐり抜けた『後』である。

 私は戦争の悲惨さや、道徳教育によって差別の悲惨さを学校でも学んだ。よって、多分、戦争に反対する事や、差別に反対する事は決して『悪い子』でなく、『よゐこ』である。
 当然、『よゐこ』の私は、
 「先生!○○君が戦争に反対しません!」
 と言いたくなる。

 私はずっと書きなぐっているように戦争には反対である。だからといって、『解りやすい』形での反戦行動や、反戦の表明をしない人達に対して、『非国民的扱い』はしない。当然、私は自我中心でしか生きていないので、「したくなる」が、する事は違う。そういう人間性は簡単に変貌する。自我中心に排除しているだけだし。また、『解りやすい』形での行動や、表明をしない人達であっても、様々な『行動』や、表明をしている事も知ってるし。

 だからといって、非常に当たり前の話なんだが、戦争に賛成する人には徹底批判する。
  
 仏教徒に右も左も関係ないやろ。左に対して批判する事が=保守という事はおかしい。
 自分が批判されたくない『座』に居続けたいだけの感じを受ける。
 革命を目指して革命しても、気が付いたら保守バリバリだったりするのは歴史が証明しているし。


 しゃて、明日は『階級の平等 摩偸羅経』が入ってる春秋社の原始仏典シリーズの第6巻を買って→銭湯→ゲバ棒親父の店→『居酒屋もみじ』コースの予定。金がないので終電で帰ろ。っちゅうか、帰れ!

 どうでもええけど、せっかく紹介して貰ったサイトに日付をずらして掲載されないのは寂しいので、時間まで誤摩化そ。ああ、我ながらさみしいやっちゃ。

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