5月4日
雑費 タバコ 300円
食類 発泡酒2 214円
鶏の照り焼き 125円
ミニ弁当 149円
うどん玉 28円
合計 816円
5月累計 18837円
公文の筆ペン練習。
練習テキストを終えた後に、半紙で好き勝手な字を好き勝手に書く。手本を見て書くのでなく、好き勝手に書く。「そんな漢字はないぞ!」っちゅう漢字もでっち上げて、筆で遊ぶ。これは練習テキストと違って楽しい。楽しいし、筆にも慣れるしエエ感じ。テキストでは苦手なテクニック(?)も遊びながらなら楽々こなせるのは何でや?まあ、好きに書いてるからやろな。
しきたり。世間のしきたり。
しきたりとしての仏事。
『宗門檀那請合之掟』という恐るべき歴史文献がある。え~と、伝統宗教に関わって居る人達、あ、俺もなんだが、隠して置いた方がエエ文章。
なのだが、うち等真宗大谷派では同朋会運動という「自殺行為だ!」と他教団から云われた運動を展開中でして、展開中なら展開し続けていかなければならず、その中で避けては通れない文献。
すげーぜ、これは。関心がある方は、このサイト(http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/nisiwaki01.html)でも見て下さい。
本ではこの間に恩師から勧められて読んだ、圭室文雄『葬式と檀家』(吉川弘文館)がお勧め。というか、それでしか知らんし。
まあ、一言でいうのなら「仏事のしきたりを守らんヤツはキリシタンか邪宗門だ!」と云う事。仏事のしきたりを守らん人は断罪される。
こんな仏事がおもしろいはずがない。
ある先生が講話で語っていた事。その先生も我が母校・専修学院の先生。
先生は永年専修学院に関わって来られ、その中で感じた事なのだろう。お寺で生まれ育った方は、仏教がキライになる事が多いらしい。それは一番身近にいてる仏教者である『住職』(まあ、だいたい父親)が、仏教を喜んでいない。仏教に関する仕事、つまり寺の仕事をする事を喜んでいない人が多いらしい。子どもはそれを見て育つ。だから、寺を継ぐのがイヤでイヤで仕方がない人が多いらしい。そういう人達が専修学院に入学してビックリする。仏教に出会って喜んでいる人が居る事に。
多分、先生御自身の経験を踏まえた言葉だと思うのだが。
門徒の子どもであった私も同じ。私にとって『坊主』とは泥棒と同義語だったし。親がお金で揉めている場面をみてたし、そういう中で『坊主』は毎月やって来て我が家から金を奪って行く。だから、私個人の明確な意志でもって確か中学生ぐらいからは法事には出なかった。法事の意味が解らなかったし。反抗期に仏事に出るわけがない。爺ちゃん、婆ちゃんっ子だったが、それと仏事とは別問題だったし。
ほぼ、実家での仏壇の世話は母親がする。だが、母親には個人的な信仰があったし。あくまでも仏壇は『家の事』。個人の信仰は別。
しきたり。仏事はしきたりではない。しきたりであった時代は終わった。のだが、え~と、いまでも『しきたり』の部分が多い。
しきたりを好んで楽しむ方も居られるのだろうが、どうも私は好きになれない。
「これはこういう風にしなければならない!」とは窮屈で仕方がない。
規則化された仏事。個人の自由意志、信仰を無視した『しきたり』。
先日初めて聞いてビックリしたのだが、公立学校給食での合掌が問題になっているらしい。
少しだけ調べてみると何やら富山県の真宗王国で問題になったらしい。というか、『真宗王国』だから問題に出来た、とひいき目でみてしまうのだが。。。
食事を頂く。合掌して「頂きます」と。それは恐らくインドから仏教と共に入って来た文化。日本の礼儀作法でもある。
けど、今の日本には様々な信仰がある。信仰の自由が保障されている。クリスチャンの方は食事を頂く前の祈りは仏教式(?)ではない。ならば、それを強制する事はおかしな事だ。どなたが批判して下さったのか解らないが、その批判は正しい。信仰の自由があるのなら、公立学校給食での合掌が強制される事はおかしい。それぞれの信仰方法でもって、それが例えば無宗教なら無宗教として何の祈りもしない事を尊重されるべきである。その上で、学級担任が仏教徒であるのなら合掌すればエエわけだし、クリスチャンならクリスチャンとしての祈りをすればイイ。それを見た生徒が何かを感じればマネするだろうし。
しきたり。「ああいう風にしなければならない」という圧力。
法事でよく喋る事でもあるのだが、同じ仏教といえども宗派や、教団によって焼香の仕方すら違う。つまり『正しい焼香の仕方』とは、所詮その教団にとっての『正しい』でしかない。よくやるのが、焼香でのお香を『頂く』、つまり、ひとつまみした香を眉間辺りにもって来てから焼香する。あれは大谷派ではしない。大谷派の正式な作法ではない。
しかし、なんとなく『丁寧』っぽいし、多くの人がそのやり方をする。まあ、焼香は焼香なんだし、「一応、正しい作法はこれです」というのだが、その時に必ず話すのは、「それぞれなんだ」と云う事。
焼香のやり方が『教えられた事と違う』からといって、相手が間違って居るとは限らない。間違って居るのなら全てが間違って居るのだろうし、その逆に全てが正しいともいえる。そんな所で「あ、あの人は間違って居る」等と云っても仕方がない。
それを偏見と云う。エゴでしかない。我がが正しく、違う相手が間違って居る。
しきたり。
ゲームのコマーシャルで香典等の袱紗の包み方をやってた。
『しきたり』とは世間体である。世間体に合わせる事によって無難にやり過ごす。
仏事が無難になったら、何の為の仏事やら。誰の為の仏事やら。信仰がない。信仰がないから楽しいわけがない。信仰自体が苦になる。苦からの解放を目指すにも関わらず、信仰が苦そのものである。
伝統宗教がしきたりになった反面、いわゆる『新興宗教』は変わらず流行っているのだろう。単純な話しである。個人の信仰だから。
しきたりに自分の居場所を確保出来ない人が来る場が真宗。『門徒物忌み知らず』の伝統。
『日本のしきたり』等、あるわけがない。
真宗門徒が培って来た伝統もあれば、『日本人』に組み込まれた琉球やアイヌ等の異文化を抱えている。
中国政府のチベット等異文化に対する弾圧は認められるものではない。
同じく、日本のしきたりなんぞというものも認められるわけがない。
今回の長野での聖火リレーで「フリーチベット!」と叫んだ方々の中に、いわゆる民族派の方々も居られるようである。そりゃそうだ、相手が中国共産党なんだから。反共の人にとってはチャンスである。
私は参加出来なかったが、参加した時に叫ぶのは「フリーチベット」ではなく「南無阿弥陀仏」でしかない。
中国政府のチベットに対する弾圧と同じく、『日本文化』とやらが、『しきたり』で統一されるのは、過去も未来も現在も真っ平御免である。
私は仏教徒の中の専門職である僧侶である。しきたりの最前線の仕事。
世間体という、仏教から一番遠いはずなのに歴史的事実として『しきたり』の象徴的存在。
雑費 タバコ 300円
食類 発泡酒2 214円
鶏の照り焼き 125円
ミニ弁当 149円
うどん玉 28円
合計 816円
5月累計 18837円
公文の筆ペン練習。
練習テキストを終えた後に、半紙で好き勝手な字を好き勝手に書く。手本を見て書くのでなく、好き勝手に書く。「そんな漢字はないぞ!」っちゅう漢字もでっち上げて、筆で遊ぶ。これは練習テキストと違って楽しい。楽しいし、筆にも慣れるしエエ感じ。テキストでは苦手なテクニック(?)も遊びながらなら楽々こなせるのは何でや?まあ、好きに書いてるからやろな。
しきたり。世間のしきたり。
しきたりとしての仏事。
『宗門檀那請合之掟』という恐るべき歴史文献がある。え~と、伝統宗教に関わって居る人達、あ、俺もなんだが、隠して置いた方がエエ文章。
なのだが、うち等真宗大谷派では同朋会運動という「自殺行為だ!」と他教団から云われた運動を展開中でして、展開中なら展開し続けていかなければならず、その中で避けては通れない文献。
すげーぜ、これは。関心がある方は、このサイト(http://www009.upp.so-net.ne.jp/kobako/nisiwaki01.html)でも見て下さい。
本ではこの間に恩師から勧められて読んだ、圭室文雄『葬式と檀家』(吉川弘文館)がお勧め。というか、それでしか知らんし。
まあ、一言でいうのなら「仏事のしきたりを守らんヤツはキリシタンか邪宗門だ!」と云う事。仏事のしきたりを守らん人は断罪される。
こんな仏事がおもしろいはずがない。
ある先生が講話で語っていた事。その先生も我が母校・専修学院の先生。
先生は永年専修学院に関わって来られ、その中で感じた事なのだろう。お寺で生まれ育った方は、仏教がキライになる事が多いらしい。それは一番身近にいてる仏教者である『住職』(まあ、だいたい父親)が、仏教を喜んでいない。仏教に関する仕事、つまり寺の仕事をする事を喜んでいない人が多いらしい。子どもはそれを見て育つ。だから、寺を継ぐのがイヤでイヤで仕方がない人が多いらしい。そういう人達が専修学院に入学してビックリする。仏教に出会って喜んでいる人が居る事に。
多分、先生御自身の経験を踏まえた言葉だと思うのだが。
門徒の子どもであった私も同じ。私にとって『坊主』とは泥棒と同義語だったし。親がお金で揉めている場面をみてたし、そういう中で『坊主』は毎月やって来て我が家から金を奪って行く。だから、私個人の明確な意志でもって確か中学生ぐらいからは法事には出なかった。法事の意味が解らなかったし。反抗期に仏事に出るわけがない。爺ちゃん、婆ちゃんっ子だったが、それと仏事とは別問題だったし。
ほぼ、実家での仏壇の世話は母親がする。だが、母親には個人的な信仰があったし。あくまでも仏壇は『家の事』。個人の信仰は別。
しきたり。仏事はしきたりではない。しきたりであった時代は終わった。のだが、え~と、いまでも『しきたり』の部分が多い。
しきたりを好んで楽しむ方も居られるのだろうが、どうも私は好きになれない。
「これはこういう風にしなければならない!」とは窮屈で仕方がない。
規則化された仏事。個人の自由意志、信仰を無視した『しきたり』。
先日初めて聞いてビックリしたのだが、公立学校給食での合掌が問題になっているらしい。
少しだけ調べてみると何やら富山県の真宗王国で問題になったらしい。というか、『真宗王国』だから問題に出来た、とひいき目でみてしまうのだが。。。
食事を頂く。合掌して「頂きます」と。それは恐らくインドから仏教と共に入って来た文化。日本の礼儀作法でもある。
けど、今の日本には様々な信仰がある。信仰の自由が保障されている。クリスチャンの方は食事を頂く前の祈りは仏教式(?)ではない。ならば、それを強制する事はおかしな事だ。どなたが批判して下さったのか解らないが、その批判は正しい。信仰の自由があるのなら、公立学校給食での合掌が強制される事はおかしい。それぞれの信仰方法でもって、それが例えば無宗教なら無宗教として何の祈りもしない事を尊重されるべきである。その上で、学級担任が仏教徒であるのなら合掌すればエエわけだし、クリスチャンならクリスチャンとしての祈りをすればイイ。それを見た生徒が何かを感じればマネするだろうし。
しきたり。「ああいう風にしなければならない」という圧力。
法事でよく喋る事でもあるのだが、同じ仏教といえども宗派や、教団によって焼香の仕方すら違う。つまり『正しい焼香の仕方』とは、所詮その教団にとっての『正しい』でしかない。よくやるのが、焼香でのお香を『頂く』、つまり、ひとつまみした香を眉間辺りにもって来てから焼香する。あれは大谷派ではしない。大谷派の正式な作法ではない。
しかし、なんとなく『丁寧』っぽいし、多くの人がそのやり方をする。まあ、焼香は焼香なんだし、「一応、正しい作法はこれです」というのだが、その時に必ず話すのは、「それぞれなんだ」と云う事。
焼香のやり方が『教えられた事と違う』からといって、相手が間違って居るとは限らない。間違って居るのなら全てが間違って居るのだろうし、その逆に全てが正しいともいえる。そんな所で「あ、あの人は間違って居る」等と云っても仕方がない。
それを偏見と云う。エゴでしかない。我がが正しく、違う相手が間違って居る。
しきたり。
ゲームのコマーシャルで香典等の袱紗の包み方をやってた。
『しきたり』とは世間体である。世間体に合わせる事によって無難にやり過ごす。
仏事が無難になったら、何の為の仏事やら。誰の為の仏事やら。信仰がない。信仰がないから楽しいわけがない。信仰自体が苦になる。苦からの解放を目指すにも関わらず、信仰が苦そのものである。
伝統宗教がしきたりになった反面、いわゆる『新興宗教』は変わらず流行っているのだろう。単純な話しである。個人の信仰だから。
しきたりに自分の居場所を確保出来ない人が来る場が真宗。『門徒物忌み知らず』の伝統。
『日本のしきたり』等、あるわけがない。
真宗門徒が培って来た伝統もあれば、『日本人』に組み込まれた琉球やアイヌ等の異文化を抱えている。
中国政府のチベット等異文化に対する弾圧は認められるものではない。
同じく、日本のしきたりなんぞというものも認められるわけがない。
今回の長野での聖火リレーで「フリーチベット!」と叫んだ方々の中に、いわゆる民族派の方々も居られるようである。そりゃそうだ、相手が中国共産党なんだから。反共の人にとってはチャンスである。
私は参加出来なかったが、参加した時に叫ぶのは「フリーチベット」ではなく「南無阿弥陀仏」でしかない。
中国政府のチベットに対する弾圧と同じく、『日本文化』とやらが、『しきたり』で統一されるのは、過去も未来も現在も真っ平御免である。
私は仏教徒の中の専門職である僧侶である。しきたりの最前線の仕事。
世間体という、仏教から一番遠いはずなのに歴史的事実として『しきたり』の象徴的存在。
なんか幸福な事をしてますねぇ。。。ええなぁ~、と都市部住人は思ってしまいます。まあ、当然御苦労もある事なのでしょうが。
>私の周りには残念ながら「考えている」坊さんはおりません。
そういう所を見てなかったりするだけだったりして(笑)
しかし、ここを読んでいて確実に影響を受けてきてる自分に・・これは危険ですね^^/
先日、二人の本願寺派の坊さんが書いた文章を読みました。この二人も軸足は教団に置かず、こちらと同じくかなりラジカル^^
私の周りには残念ながら「考えている」坊さんはおりません。